インフォーメーショーン・サービス16
公務員試験に役立つ「日本経済史」

目 次
I部 戦後経済史の概説
1.戦後経済復興期
2.高度成長期
3.石油危機
4.バブルの生成と崩壊
II部 戦後経済史の諸側面
1.三回の円急騰局面
2.貿易の変遷
3.物価の変遷
 付表 戦後の景気循環

I部 戦後経済史の概説

1.戦後経済復興期

 太平洋戦争により、平和的国富(非軍事のストック)の被害率は25%となり、鉱工業生産は戦前の1/10となり、その後も1/3前後で推移した。

 戦後の混乱への対策としては、1946年の金融緊急措置(インフレ阻止のための通貨量削減)、1949年以降のドッジ・ラインによる超均衡予算によるインフレ対策、そして重要産業への傾斜生産方式による基礎的生産能力の強化などがあげられる。また、戦前経済の反省と脱却のため、根本的な構造改革が行われた。第一は、財閥の解体である。1947年に、83社の財閥の解体が行われ、独占禁止法と過度経済力集中排除法が制定された。第二は、農地改革である。農地の多くが、それまでの小作農民に売り渡された。第三は、労働改革である。労働者の地位向上のため、労働三法(1945年の労働組合法、1946年の労働関係調整法、1947年の労働基準法)が制定された。

 生産の戦前水準への回復は、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需が主な要因となった。日本の産業界は、アメリカ軍から大量の軍需物資の発注を受け、輸出も急増した。その結果、1951年には、鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資が,戦前の35年水準に回復し、1952年には実質国民総生産、実質賃金(製造業)が、同水準に回復した。こうして、戦後の混乱期からの復興をほぼ果たし、1955年からの本格的な高度経済成長過程となるのである。そして、1956年の経済白書では、「もはや戦後ではない」と宣言された。


[先頭][情報サービス目次]

2.高度成長期

 1955年から1972年を高度成長期とすると、この間の実質GDP成長率は、平均9.3%に達する。

 高度成長期の黄金時代は、1960年代である。岩戸景気(58年6月―61年12月の42カ月間)、オリンピック景気(62年10月−64年10月の24カ月間)、いざなぎ景気(65年10月―70年7月の57カ月間)と続いた。この10年の平均成長率は、10%を超え、特に60年は13%に達した。

 高度成長の主役は製造業であり、石油化学,自動車,家電が急成長したのであった。就業者に占める製造業の割合が,過去百年で最も高い時期であり、70年には27%近くになった。以降、経済のサービス化が進み、2000年には21%台に低下した。世界経済に占める比重も高くなり、GDPは68年に西ドイツを抜き,アメリカに次ぎ第二位となった。

 わが国と欧米との技術水準のギャップが拡大していたため、輸入可能な技術革新が豊富に存在していた。これに、能力が高い人的資源が従来から蓄積されていたため、高度成長が可能であった。欧米の技術をキャッチ・アップし、加工を加え、日本的な技術移転が行われた。

 戦前においても、日本の教育の普及率は高いものであったが、戦後高学歴化が急速に進んだ。1955年に、高校等進学率は51.5%,大学等進学率は10.1%であったが、1972年には前者が87.2%、後者が29.8%となった(99年には、それぞれ、96.9%,49.1%であった)。この能力の高い人材に対して、長期雇用の慣行が成立したため、企業内の教育・訓練が十分に行われ、技術力の高い人材が養成された。 

 高度成長期は、日本独特の制度・慣行が確立していったといえる。第一に、株式持合い(買収を恐れ、密接な関係にある企業同士が互いの株式を保有すること)に見られる企業グループの存在である。第二に、メインバンクを中心とした金融仲介システムである。第三に、年功賃金、終身雇用の雇用システムである。第四に、経済全体をカバーする公的規制である。これらは、経済成長のなかで、自然発生的に生まれてきたもので、当時の経済環境に適合したものであった。

 このような発展のなかで、我が国の貿易制度は、1950年代後半に入ると次第に海外の批判の対象となった。国際収支上の理由で輸入制限を行い、かつそれを国内産業保護に利用しているという批判であった。これに対し、政府は、1960年に「貿易・為替自由化計画大綱」を閣議決定し、貿易面では、1964年にガット11条国(国際収支上の数量的制限の一般的廃止)に移行し、自由化率の拡大を行い、為替面では1964年4月にIMF8条国(経常収支の取引の制限をしないことや差別的通貨措置を採らないこと)に移行し、経常収支の取引面を大幅に自由化した(さらに、1980年12月施行の新外国為替及び外国貿易管理法により資本取引の面でも原則的に自由化された)。


[先頭][情報サービス目次]

3.石油危機(石油ショック)

 1973年10月の中東戦争により、原油価格が1バーレル当たり1973年の3.3ドルから1974年の10.8ドルへと上昇した。これが第一次石油危機であった。その結果、中東への石油依存度の強い日本は、生産性の低下、激しいインフレーション、経常収支の赤字、そして1974年には戦後初めてのマイナス成長となった。

 一方で、エネルギー資源の希少性への関心が高まり、省エネルギーへの対策が進んだ。自動車業界では、省エネルギーの技術開発が進み国際競争力がつき、1977年には鉄鋼に代わり輸出の第一位となった。また、経営者は、減量経営に励み、インフレ下の不況というスタグフレーションから、諸外国より速やかに脱出できたのであった。

 第二次石油危機は、1979年に発生した。原油価格は、78年の1バーレル当たり12.7ドルから81年の32.5ドルへと上昇した。しかし、日本経済は、第一次石油危機の経験による学習効果により、第一次石油危機ほどの混乱を見せなかった。つまり、第一次石油危機時の企業の売り惜しみ、消費者の買い急ぎ、賃金の大幅上昇による激しいインフレを経験した日本経済は、第二次石油危機では大幅なインフレを招かなかったのである。

 石油危機以降、10%を超える高成長は到底無理となり、安定成長期へと移行したのである。


[先頭][情報サービス目次]

4.バブルの生成と崩壊

 二度の石油危機を経て、回復した日本経済であったが、1985年9月のドル高・円安是正のためのプラザ合意により、円高不況が日本経済を襲った。プラザ合意は、アメリカの経常収支の赤字を始めとする国際的な経常収支の不均衡を是正するためのものであった。9月に1ドル=237円であったが、86年8月に154円へと上昇し、わが国企業の輸出採算は悪化し、不況となったのであった。この円高に直面し、日本企業は、輸出依存型の経営体質の改善に努めた。すなわち、内需の掘り起こしや海外現地生産(海外直接投資)の増加となった。このため、円高に耐えうる経営を可能にし、バブル期の好況をもたらした一因となったのであった。

 1980年代後半の景気拡大は、地価・株価等の資産価格の大幅な上昇を伴うものであった。いわゆる、バブル景気である。この資産価格の上昇の要因としては、企業業績が好調であったことによるオフィス需要の増加や、行き過ぎた円高の阻止のための金利の低下、そして投機的需要の膨張によるバブルの発生であった。

 株価は、景気拡大と金利の低下により、大幅に上昇し、87年当初日経平均株価は2万円弱であったが、89年末には3万8915円とピークに達した。地価は、83年頃から東京都心の商業地から上昇し始め、都区部の住宅地がその後上昇し、そして首都圏の商業地、住宅地と上昇していった。87年には、大阪,名古屋の大都市圏へと地価上昇が波及し、89年には地方圏へと地価上昇が波及していった。

 株式・地価の上昇(キャピタル・ゲイン)は、バブル期に巨額のものであった。86−89年には、名目GDPに匹敵するかそれ以上のものであった。特に87年には、名目GDPの140.2%の上昇であった。

 しかし、金利上昇により、資産価格が下落し始め、景気後退もありバブルは崩壊していった。株価は、公定歩合の引き上げもあり、90年に入ると急落し、10月には89年末のピーク時の半分近くとなった。そして、92年8月には、1万4309円にまで低下した。地価は、88年に東京圏で下落し始め、90年には大阪圏で鎮静化し始め、91年には下落は顕著となった。これは、金利の引き上げ、土地基本法以降の税制面の見直し、土地関連融資の総量規制(90年4月から,金融機関の不動産業向け貸し出しの増加を、総貸し出しの増加以下にする規制で、不動産投資がかなり抑制された)等による。その結果、99年まで公示地価は、下落を続けている。

 このバブル崩壊期の株価・地価の下落(キャピタル・ロス)も、巨額であった。特に、92年には、名目GDPの86.9%の下落であった。このように、資産価格の上昇・下落が、GDPに匹敵するほどに進行したのは、国民経済のストック化が進行したためである。

 バブルの崩壊は、企業や家計が、バブルが永遠に継続するものとして投資した株式や不動産の下落に伴う負債の削減の必要性を認識させた。これに伴い、雇用調整を伴うリストラクチュアリング(経営の再構築)や、負債削減を伴うバランス・シート(貸借対照表)調整が行われていったのである。これが、家計や企業のマインドを急速に悪化させ、景気循環的要因と重なり、戦後2番目の長期の景気後退(91年3月―93年10月)、すなわちバブル後退となったのであった。


[先頭][情報サービス目次]

U部 戦後経済史の諸側面

1.3回の円急騰局面

 1949年1ドル=360円でスタートした円は、3回の急騰場面があった。いずれも、日本の貿易収支の黒字とアメリカの貿易収支の赤字が背景にあった。 第一の波は、71年のニクソンショック(金・ドル交換停止発表)以降であった。この急騰局面は、73年2月の変動相場制移行を経て、78年11月のカーター政権によるドル防衛まで続いた。71年まで360円であった円は、78年には180円を切った。73年までは、円高不況防止のための積極財政と金融緩和が行われ、石油危機と相まって狂乱物価が生じた。

 第二の波は、プラザ合意による急騰であった。ニューヨークのプラザホテルでの5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で、為替市場でのドル安・円高誘導が決定された。このプラザ合意前に240円であった円は、87年末のクリスマス合意によるドル防衛まで、120円を切る寸前まで上昇した。その間、金融緩和政策に比重がかかったこともあり、バブルが発生した。

 第三の波は、93年のクリントン政権の円高容認から始まった。経済的ライバルの日本を振り落とすためであった。円高は進行し、バブル崩壊により90年には160円台に下落していた円は、94年6月に100円を突破し、95年4月には円は1ドル=79円75銭の最高値をつけた。当時の財務長官のルービンは、ドル安(円高)の危険を認識し、ドル高政策を鮮明にした。日米による介入は功を奏し、円高ドル安是正は成功し、第三波は比較的短く終わった。

 超円高は、日本企業の海外進出を決定的にしたのであった。また,最近の継続的な物価の下落は、円高や安価な労働力を求めた直接投資による安い逆輸入品によるところが大きいといえる。


[先頭][情報サービス目次]

2.貿易の変遷

 常に、最も重要な貿易相手国は、アメリカであった。輸出の約3割、輸入の約2−3割を常に占めている。中国,韓国,台湾などアジア諸国との貿易のつながりも深い(表1参照)。

表1.主な輸出国・地域の推移
第一位 第二位 第三位
1960年 アメリカ 香港 フィリピン
1980年 アメリカ 西ドイツ 韓国
1999年 アメリカ 台湾 中国

 取引の内容は大きく変化した。戦前は、繊維製品が主な輸出品であったが、戦後、繊維から鉄鋼,自動車,半導体へと、主力製品は移行していった(表2参照)。輸入は,原油の比重が上昇した。80年代貿易収支の黒字が増加すると、貿易摩擦が生じ,主にアメリカにより,綿製品、鉄鋼自動車,半導体などが攻撃対象となった。72年に,日米政府間で綿製品協定が結ばれた。81年に自動車の輸出自主規制、86年に半導体協定と繰り返された。

 大市場への接近の狙いや、度々襲う円高もあり、貿易摩擦を避けるため,電気製品や自動車を中心に、企業は欧米に直接投資を行った。85年のプラザ合意以降は、安い労働力を求めて,NIEs諸国、ASEAN諸国、そして中国への直接投資が急増した。80年代後半以降,アジア諸国との貿易が一段と活発になっており、2000年は輸出の約4割が、アジアとなっている。

表2.日本の輸出上位3品目の推移(括弧内はシェアの%)
1 位 2位 3位
1940 生糸(12.2) 綿織物(10.9) 鉄鋼(5.4)
1950 綿織物(25.3) 鉄鋼(8.4) 生糸(4.8) 
1960 綿織物(8.7) 船舶(7.1) 衣料(5.4)
1970 音響機器(6.1) 汎用鋼板(6.0) 船舶(5.9)
1980 自動車(17.9) 音響機器(5.4) 汎用鋼板(4.2)
1990 自動車(17.8) 事務用機器(7.2) 電子部品等(4.7)
1999 自動車(14.9) 電子部品等(7.8) 事務用機器(6.4)
(日本経済新聞2000年12月31日版より)


[先頭][情報サービス目次]

3.物価の変遷

 太平洋戦争後、経済混乱により,かつてないインフレーションが発生した。34−36年の平均物価と比較すると、51年に卸売物価は346倍となり、消費者物価は255倍となっていた。そのため、ドッジ・ラインにより、超緊縮財政が行われ物価安定が図られた。

 それ以降の50年で、卸売物価は約2倍、消費者物価は約7倍となった。このように、卸売物価と消費者物価がかなり乖離するのは、戦後の現象である。卸売物価の上昇が小さかったのは,円相場が1ドル=360円から3倍以上上昇したことによる輸入価格の低下や、工業製品の生産性が著しく向上したことによる。

 この50年で、卸売物価が大きく上昇したのは、2度の石油危機という国際的要因によるものだけである。80年代後半のバブル期ですら、卸売物価は、地価や株価が急上昇するなかで、下落する年度もあったのである。

 消費者物価が、卸売物価に比べはるかに上昇したのは、流通段階での低生産性が主な要因といえる。しかし、95年度と99年度の消費者物価は下落した。これは、円高による輸入価格の低下や、東アジアへの安い労働力を求めた直接投資による逆輸入製品が、かなり安価なためである。

 一方、地価が,卸売物価や消費者物価等の一般物価に比べても大きく上昇したのは、戦後特有の現象である。戦後の高い経済成長による土地需要の膨張により,地価は高騰を続けてきたのである。しかし、90年代のバブル崩壊により生じた、10年に渡る地価の下落は、金融機関の巨額の不良債権を発生させた。このような長期かつ大幅な地価の下落は、かつて経験したことのないものであり、現在も日本経済の足かせとなっているのである。


[先頭][情報サービス目次]

付 表   戦後景気の山と谷
    (最初の景気循環の谷は不明)
朝鮮戦争特需景気
51年6月 (山)
景気後退期(4カ月)
51年10月(谷)
景気拡大期(27カ月) 
54年1月(山)
景気後退期(10カ月)
54年11月(谷)
神武景気(31カ月)
57年6月(山)
なべ底不況(12カ月)
58年6月(谷)
岩戸景気(42カ月)
61年12月(山)
景気後退期(10カ月)  
62年10月(谷)
オリンピック景気(24カ月)
64年10月(山)
昭和40年不況(12カ月)
65年10月(谷)
いざなぎ景気(57カ月)
 (戦後最長の景気拡大)
70年7月(山)
景気後退期(17か月)
71年12月(谷)
列島改造ブ−ム(23カ月) 
73年11月(山)
第一次石油危機(16カ月)
77年1月(山)
景気後退期(9カ月)
77年10月(谷)
景気拡大期(28カ月)
80年2月(山)
第二次石油危機(36カ月)
 (戦後最長の景気後退)
83年2月(谷)
景気拡大期(28カ月)
85年6月(山)
円高不況(17か月)
86年11月(谷)
平成景気(51カ月)
  (バブル景気)
91年2月(山)
平成不況(32カ月)
  (バブル崩壊)
93年10月(谷)
景気拡大43ヶ月
97年5月(山)
第二次平成不況20ヶ月
99年1月(谷)
景気拡大21ヶ月
2000年10月(山)
景気後退15ヶ月
2002年2月(谷)
(注)谷から山が景気拡大期,山から谷が景気後退期である。景気拡大期または景気後退期とあるのは、通称のない拡大期と後退期である。

[先頭][情報サービス目次]