インフォーメーショーン・サービス21
公務員試験に役立つ「世界経済史」
1944年7月、第二次大戦で勝利の見通しがたった連合国の代表は、アメリカのブレトン・ウッズに集まり、戦後の世界経済の運営についての国際通貨金融会議を開いた。そこで、制定されたのが、ブレトン・ウッズ協定である。これにより、国際通貨基金(IMF)が誕生した。IMFは、1945年に国連の発足により専門機関に組み入れられ、1947年に業務を開始した。
IMFの固有の目的は、為替の安定、為替制限の撤廃、外貨資金の供与の3つである。
(1) 為替の安定
IMF協定第1条では、加盟国に為替の安定を促進し、競争的平価切下げの防止を求めている。これにより、第4条では、加盟国に為替相場を平価(米ドルにより表示された各国通貨の価値で、IMF平価といわれる)の上下1%以内に維持することを義務づけた。しかし、一国が大幅な国際収支の不均衡に陥った場合に、自国経済の安定や成長を妨げると同時に外国にも悪影響を与えるので、このような基礎的不均衡の場合には、平価の変更を認めた。
(2) 為替制限の撤廃
IMF8条では、加盟国は経常的取引や資金移動の支払いに対して為替制限を課してはならず、差別的通貨措置を避け、外貨保有残高に対し交換性を付与することの3つの義務を課している。これは、世界貿易を拡大させるための多角的決済制度を確立する措置であり、すなわち、為替の自由化である。この義務を履行している国を、IMF8条国と呼ぶ。
(3) 外貨資金の供与
加盟国が国際収支の不均衡に陥ったときに、上記2つの義務を遂行させるために、IMFは中短期の融資を行った。この融資は、3−5年で返済しなければならず、IMFに対し、自国通貨により必要な外貨を売買するという為替取引きの形で行われる。
(4)IMFの特質
IMFの目的は、以上の3つであるが、これらによりIMFはどのような特質をもっていたか。 第一は、「平価の番人」という呼称のとおり、固定平価制を強く推進したことである。これは、戦前の平価切下げ競争の反省により生まれたものである。そのため、加盟国に融資するときは、平価の維持と国際収支の改善のために、国内経済運営に厳しい条件をつけたのであった。 第二は、融資が、資金のプールという基金原理により運営されたことである。各国が出資した基金はプールされ、国際収支が赤字のときには引き出しそれに充て、黒字になると返済されるという仕組みである。
(5) 為替の自由化の展開
ブレトン・ウッズ協定を中心とした世界経済の再建構想に立ちはだかった壁は、予想をはるかに超えたドル不足の出現であった。アメリカ以外の国の国際収支が赤字となり、保有する外貨準備が大幅に不足した。IMFは、第14条の過渡期条項を利用して、為替制限の継続を認めたのであった。そのため、1949年に、イギリスは大幅な平価切下げ(1ポンド=4.03ドルから、2.80ドルへ)行い、西欧諸国のほとんどがこれに追随した。これは貿易を立ち直らせ、経済復興に少なからず寄与した。そして、西欧諸国が、貿易為替の自由化を進めたのは、まず域内からであった。域内貿易の発展により、経済復興は加速され、特に奇跡的復興を遂げた西ドイツはその代表であった。域内に関しては、1950年代中頃にほぼ自由化を達成した。一方、ドル圏との自由化は遅れたが、西欧主要通貨は1958年末に交換性を回復した。そして、1961年に、そろってIMF8条国へ移行した。日本も1964年に8条国へ移行し、国際決済状態がほぼ成立したといえた。
(6) 金ドル本位制の成立
ドルが国際通貨となった背景は、強大なアメリカの国力であり、特にほとんどの分野で絶対優位に立った経済力によるものであるが、直接関連したのは、対戦中無傷であったアメリカに集中し蓄積された巨額の準備金であった。アメリカは、1934年から純金1オンスの価格を35ドルに限定し、外国通貨当局が保有する公的保有ドルに対しては、この価格で金と交換した。1949年には、最高の246億ドルの金準備を保有し、各国から絶大な信頼を得ていた。このように、戦後の国際通貨体制は、金と兌換可能なドル本位制つまり金・ドル本位制でスタートした。
IMFは、国際通貨協力の中心機関であったが、ドルあってのIMFであり、ドルが後見人であったのである。それゆえ、IMFに融資を希望する国も、国際通貨性を有するドルに集中した。
(1)ドル不安の発生
金準備が、外国の公的保有ドルに対して、100%以上ある限り、ドルの信認は保たれていた。
50年代に入ると、東西冷戦により対外軍事支出や途上国への開発援助が加わり、アメリカの国際収支は赤字に変わった。50年代後半からは、資本の自由化が進んだこともあり、アメリカの資本は大量に外国へ流出するようになり、赤字幅は一挙に拡大した。
60年に、アメリカから年々流出したドルの累積高が、アメリカ政府保有の金準備を上回るようになった。そのため、この年の秋に最初のドル不安が発生した。アメリカ政府は、金兌換を停止するのではないか、金価格を引き上げるのではないかという憶測を呼び、ドルから金へ乗り換える投機が発生し、金価格を暴騰させた。
(2)アメリカの国際収支悪化の要因
ドル不安が発生したのは、アメリカの国際収支の悪化であった。 アメリカの貿易収支は、競争力があらゆる産業で優位にあったため、60年代半ば頃まで大幅な黒字を続けた。しかし、50年代後半からは、資本収支が大幅な赤字となったため、国際収支は一挙に悪化した。これは、西ヨーロッパで資本の自由化が進んだことや、地域経済統合による成長率の高まりが、アメリカ資本のこの地域への投資誘因が増大したためである。
60年代後半になると、ベトナム戦争激化により対外軍事支出が増加し、一方で国際収支を支えて来た貿易収支の黒字が、目に見えて減少し始めた。その理由としては、第一に、宇宙開発や軍需産業への資源の偏った配分により、生産性伸び率が低下したことである。 第二に,日本や西欧諸国が、高度成長によりアメリカを経済力において激しく追い上げてきたことである。そして、70年代に入ると、貿易収支が戦後初めて赤字化するという重大な局面に移行した。
(3) 資本流出の抑制策
国際収支改善のための対策がとられはしたが、資本の流出がそれを上回って増加したため、国際収支の赤字は解消できなかった。ケネデイ政権は、資本の流出を抑制するために,対外証券投資や借款が生む収益に対して課税するという金利平衡税を創設した。しかし、平衡税の対象にならない短期資本の借り換えや直接投資(当ホームページの公務員情報サービスの「日本経済事情概説」参照)が増加して、ドルの流出は止まらなかった。そのため、ジョンソン政権は、65年に短期資本にも適用範囲を拡大し、企業の直接投資などに対し、自主規制を要請した。これはある程度の効果を生んだが、この年ベトナム戦争が拡大し、軍事支出の増大によりその効果は打ち消されてしまった。
(4) 金の二重価格制
67年11月にポンドの平価が切り下げられると、投機はドル売り金買いに向かい、大規模なゴールドラッシュに発展した。その背景となったのは、アメリカの経常収支が67年に赤字基調に変わったことや、正式に金兌換請求権をもつ公的保有ドルだけで、金準備を上回ったためである。ジョンソン政権は、対外投資規制などドル防衛強化策を行ったが、68年3月に空前のゴールドラッシュとなり、手持ちの金を放出し続けてきた各国通貨当局も抗しきれず、遂に金価格の支持を断念した。その結果、自由金市場では、自由に価格が決まったが、公的取引では今までどおり公定価格が用いられるという二重価格制となったのである。
この実質的な意味は、アメリカ政府が、自由金市場における民間保有ドルとの金兌換を止めるということであった。金兌換は、それゆえ公的保有ドルだけに限られることになった。しかし、アメリカ政府は、外国政府にドル防衛上金兌換を止めるように要請し、諸外国政府も協力した。つまり、金兌換の事実上の停止である。そして、それに、法律上の裏付けをしたのが、71年8月のニクソン声明であった。
(1) ポンド不安
イギリスは、1949年に大幅な平価切下げを行い、その後は順調に復興と成長の軌道を歩んだ。しかし、60年代に入ると、ポンドは毎年のように不安が起こり、そのつどIMFや先進各国から資金援助を受け乗り切った。しかし、国際収支が改善されない限り、ポンド不安は解消されず、67年11月に二度目の平価切下げ(1ポンド=2.80ドルから2.40ドルへ)が行われ、その後もポンドは低落を続けた。
ポンド不安の原因は、戦時中から持ち越されたポンド債務があることや、イギリス経済の構造的弱体化により、国際収支も悪化の一途をたどったためである。ポンドは、平価の切り下げにより、徐々に基軸通貨の地位を失っていった。そして、イギリスのEC加盟により、この傾向はさらに強まった。
(2) マルクの切り上げ、強くなった円
1950年代に奇跡的な復興を成し遂げた西ドイツは、その後も成長を続けた。特に、輸出の伸びが目覚しく、国際収支は黒字を続け金・外貨準備が増加した。マルクは、そのため強すぎると非難が高まり、61年に5%の平価切上げが行われた。しかし、その後も輸出の増加率は落ちず、マルクは堅調を維持したが、ドル、ポンド、フランが弱体化したため、それらとの格差が拡大していった。68年3月に、金兌換が事実上停止され、金は投機の対象からはずされ、強いマルクへの投機熱が高まった。69年10月に、ついにマルクの二度目の平価切上げを余儀なくされた。
60年代後半、金の二重価格制や主要国の相次ぐ平価調整があり、IMFではSDR(後述する)が創出されるなかで、強さがにわかに目立ってきたのが、円であった。65年までは、成長が過熱すると輸入が増え赤字となり、景気後退となると輸入が減り黒字化するという循環的不均衡のパターンをとってきた。しかし、65年以降は、高度成長であっても黒字が定着した。71年に黒字幅は急増し、外貨準備高は上限といわれた年間総輸入額の3分の1を突破した。そのため、平価切上げを見越した資本の流入が起こり、外貨準備高は増えつづけた。71年8月、ニクソン声明により、アメリカがドルの金兌換停止を発表すると、円の切り上げを予想して、大量のドル資本が流入し、平価の維持は断念せざるをえず、変動相場制へ移行した。
(3) SDRの創出−IMF協定第一次改正
ドルの供給は続き、ドル不安が相次いで起こり、このようなディレンマを避けるには、国際流動性の供給をドルやポンドなどの国民通貨に依存することをやめ、真の国際通貨の創造が必要であるという見解が浮上してきた。
この結果、IMFに設けられたのがSDRである。SDRは、特別引出権Special Drawing Rightであり、68年のIMF総会で創設が決まり、70−72年までに95億ドルが創出された。各国への配分は、IMF割当額に比例した。また、SDRの使用は、国際収支上の必要に限られた。つまり、国際収支の赤字か対外支払い準備の補強以外には使えないものであった。そして、SDRは外貨の借り入れ権であるので、ドルのように民間取引に用いることはできない。
(1) ドルの金兌換停止
71年に,アメリカの貿易収支が戦後初めて赤字となり、国際収支は空前の規模の赤字になることが見込まれ、アメリカから大量のドル資本流出が続いた。一方、黒字のためドルの大量流入により、マネーサプライの増加を恐れた西ドイツは、変動相場制へ移行した。これがドル不安をさらにつのらせ、ドルが流出し、通貨情勢は急激に悪化していった。
このようなとき、アメリカが行ったのが、ドルの金兌換の停止であった。71年8月、ニクソン大統領は、ドル防衛緊急対策としてドルの金兌換停止と10%の輸入課徴金の賦課などの新経済政策を発表した。これは、以前からの金の二重価格制など金をドルから切り離す一連の方針に沿うものであった。そして、これは、金ドル本位制の終焉を意味し、世界各国に衝撃を与えた。これが、いわゆるニクソンショックである。 声明が発表されると、アメリカから大量のドルが強い通貨をめざし流出した。各国ともこのような流れに抗しきれず、平価の維持を断念し、為替相場を市場の需給にまかせる変動為替相場制へ移行した。こうして、ブレトン・ウッズ体制の柱であった固定平価制は破綻し、事実上ブレトン・ウッズ体制は終焉を迎えたのであった。
(2) スミソニアン体制
ニクソンショック後、ブレトン・ウッズ体制に代わる体制をめざして、各国間で協議が行われたが、平価の調整幅などをめぐり各国の利害が一致しなかった。しかし、変動相場制や為替管理などの措置が国際取引に好ましくない影響を与えるため、新体制を望む声が強くなり、71年12月にワシントンのスミソニアン博物館での10カ国蔵相会議でようやく合意が成立した。これが,スミソニアン体制であった。
ここで合意された主な点は、第一に、主要通貨の多角的調整である。第二に、ドルの切下げである。したがって、その他通貨はほとんど対ドル切り上げとなった。円は、最大の切り上げとなり、円の平価は1ドル=360円から308円へと16.88%切り上げられた。第三に、為替相場の変動幅の拡大であった。従来の平価の上下各1%から2.25%へ拡大された。
しかし、スミソニアン体制は、長続きしなかった。大規模な平価調整にもかかわらず、国際不均衡は従来と変化がなかったためである。アメリカの赤字は改善されず、日本や西ドイツの黒字は継続した。不均衡の継続による通貨不安は頻発し、72年6月に,イギリスが変動相場制へ移行し、スミソニアン体制から離脱した。アメリカも、73年2月に2度目の平価切下げを行い、その他諸国もそれぞれ変動相場制へ移行した。西欧諸国では、域内では固定相場制をとり域外に対しては変動相場制という共同フロート制を採用した。こうして,スミソニアン体制は,崩壊した。
(3) キングストン体制
世界は、こぞってフロート制になったが、このようななかでも、なおスミソニアン体制に代わる国際通貨制度が模索され続けた。しかし、73年末からの石油ショックは、各国に狂乱物価、国際収支不均衡,戦後最大規模の不況のトリレンマをもたらし、各国は、通貨改革を考える余裕などなくなってしまった。
この際、各国の通貨価値は、また激しく変動した。ドルは有事に強いことを反映し急速に立ち直り、逆にそれまで強めに推移していたマルク,円などは軒並み下落した。最も痛手を受けたのは、イタリア・リラとイギリス・ポンドであった。また、フランス・フランは、共同フロートから離脱し単独フロートへ移行した。こうして、固定相場制復帰の可能性は薄くなり、当分の間フロート制に任せる以外に手段はなかった。
石油ショック後の世界経済の危機を克服するために、75年11月にフランスのランブイエで第1回先進国首脳会議(サミット)が開かれた。ここでの合意を受け、76年1月にジャマイカのキングストンでのIMF暫定委員会で、次のようなIMF協定の第二次改正が成立した。第一は、現状のフロート制を追認し、固定相場制と変動相場制のいずれを採るかは、加盟国の選択に任せることにした。第二は、金の公定価格の廃止、IMFへの金出資の廃止を行い、それによりIMF保有金の6分の1を出資国へ返還し、6分の1を売却しその差益により途上国への援助のための特別信託基金をつくることにした。また、IMFの融資枠も拡大された。この改正案は、加盟国の批准を経て78年4月から発効し、フロート制を追認したキングストン体制がスタートした。
IMFは、こうして「平価の番人」としての役割を放棄し、残された最も重要な役割は融資となった。
II章 GATT(関税及び貿易に関する一般協定)の歴史と世界経済
戦後の世界経済を再建する構想はブレトン・ウッズ会議(1944年)でその方針が打ち出され、為替と長期投資を管轄するIMFと世界銀行が発足した。一方、世界経済の再建には貿易に関する機関も必要なため、アメリカは1945年に国連の下部機構として「国際貿易機構」(ITO)の設立を提案した。ITO憲章は、あまりにも自由貿易の理想を追究したことから、各国の批准が得られず,実現しなかった。GATTは、もともとITOができるまでの暫定的なものであったが、ITOが実現しなかったため、GATTが代わって活動することになった。GATTは、国際協定であり、国際機構ではない。しかし、国際貿易に関する唯一の国際協定であり、GATTのいう権利・義務は尊重されており、戦後の世界経済の運営上重要な役割を担ってきた。
GATTは,自由な貿易の拡大を,関税引き下げと輸入制限の撤廃により実現してきた。また、GATTは、自由な貿易の拡大とともに、無差別な国際貿易の原則を採っている。つまり、すべての国に対して,貿易に関して同条件の待遇をしなければならないということである。
GATTは、理想を実現するため、関税引き下げ,輸入制限の撤廃,最恵国待遇の確保の3つを基本原則にしているが、多数国間の交渉により諸事項が決定されることから、多くの例外規定がある。
輸入急増に対する緊急輸入制限,途上国の特定産業の保護など暫定的に認められているケースも多い。また,既得権としての特恵制度の承認や地域的経済統合の設立も例外として認められている。
戦災からの復興途上にある国は、輸出不振,輸入の増加により経常収支が慢性的に赤字になる恐れがあり、輸入制限の必要があった。GATTもこれを認めた。しかし、先進国のほとんどは、復興を果たした60年代の初めには,輸入制限は廃止された。しかし、輸入制限が全廃されたわけではなく、正当な理由のないGATT違反の「残存輸入制限」が残り続けた。
GATT設立後は、GATTが全加盟国を召集して,多角的な交渉を行うことになった。この一般関税交渉は、5回目のディロン・ラウンド(1961−62)までは、どの品目にどの程度関税を引き下げる かの二国間交渉(国別・品目別交渉方式)が、GATTの場で同時並行的に行われ、そこでまとまった関税引き下げは他の加盟国にも自動的に適用されることになった。しかし、関税引き下げが進むにつれ、二国間で合意できる品目が少なくなり、高関税国は引き下げ余地が大きいが、低関税国は少なく、不利になるなどの問題が生じ、関税交渉はやがて行き詰まるようになった。
このような行き詰まりを打破するために、アメリカのケネディ大統領は、第6回の関税交渉でいままでと異なる関税一括引き下げ交渉を提案した。アメリカの狙いは、EEC(欧州経済共同体)の対外共通関税がアメリカ製品を締め出すのを、食い止めることであった。
ケネディ・ラウンドの最大の成果は、工業品の分野で関税の平均引き下げ率35%にこぎつけたことであった。参加国は46カ国、それにより影響を受けた貿易額は400億ドルに達した。ディロン・ラウンドの23カ国、50億ドル、平均引き下げ率7%に比べると、大きな成果であった。これにより,先進国のほとんどの工業品の関税は、10%ないしそれ以下になり、保護関税としての機能は小さいものとなった。
1960年代には,南北格差が顕著となり、途上国の不満が高まった。南側は、結束し国連貿易開発会議(UNCTAD)により、南側への様々な特別優遇措置を北側に迫った。これらの要求を受け、GATT第4部(新章)が新設され、一般特恵制度(GSP)が決まった(1970年のUNCTADの特恵委員会で合意)。GSPは、先進国が途上国の製品・半製品の輸入を促進するために、特別措置として最恵国待遇の関税率より低い税率を適用するものである。
これは、GATTの基本理念である無差別最恵国待遇の原則の重大な修正であった。
東京ラウンドは、交渉開始直後に第一次石油危機が起こり、また金とドルの交換停止により国際通貨が混乱していたため、交渉の進捗は遅かったが、79年4月に妥結した。関税引き下げは、高関税のものほど引き下げ幅を多くし、関税率の平準化が行われた。主要国の工業品全体の平均引き下げ幅は、33%(87年までの段階的引き下げ)となり、品目数とともにケネディ・ラウンドに匹敵するものとなった。また、関税以外の分野では、ダンピング防止協定、規格協定、政府調達協定など8つの協定が作成された。この多くは、ルールが明確化されていなく、具体的な成果には乏しかったが、非関税障壁の撤廃に踏み込んだ点は評価できるといえる。
最近の貿易摩擦の特徴は、知的所有権の保護、直接投資の自由化、サービス産業への規制緩和など、いままで問題にならなかった分野で摩擦問題が生じていることである。残存する貿易障壁の削減に加え、これら新分野についても合意されたのが、GATTのウルグアイ・ラウンドである。7年あまりの交渉の後、94年4月に合意に至った。主な合意内容は、次のとおりである。
市場アクセスに関しては、第一に、先進国の鉱工業品の平均関税率の約40%引き下げである。第二に、農業の国内補助金と輸出補助金の削減や農産物の関税化や関税の引き下げである。ルール分野に関しては、第一に、紛争処理手続きの迅速化である。第二に、ダンピング・マージンの計算方法の明確化である。第三に、セーフガード(輸入品が自国産業に重大な損害を与える場合に、輸入品を制限する権利を認めた2国間の合意措置)を発動できる要件の規定と輸出自主規制などの灰色措置の廃止である。第四に、サービス貿易で、全加盟国に平等な待遇を与える最恵国待遇や、他国のサービスを自国のサービスより不利に扱ってはならない内国民待遇を実施することである。第五に、知的所有権に関する最恵国待遇の規定と世界貿易機関(WTO)により紛争処理を行う規定を設けることである。第六に、進出企業に一定割合の部品を現地で調達することを義務付けるローカル・コンテスト要求の禁止である。
この合意内容を実施するための国際機関として、世界貿易機関(WTO)が設立された。99年3月で、134の国・地域が参加している。WTOの機能には、ウルグアイ・ラウンドの合意の実施以外に、統一的な紛争解決規則・手続きの運用、貿易に関する加盟国間の交渉の場、そして各国の貿易政策の審査などがある。
III章 西欧地域統合−欧州連合(EU)への生成と展開
ブレトン・ウッズ体制では、戦前の排他的なブロック経済を打破することが第一目標であり、自由かつ無差別な世界貿易体制の構築を唱えたが、その接近方法は世界的な規模での関税引き下げであり、自由化であった(グローバリズムによる自由化))。一方、EUなどのリージョナリズム(地域統合)は、自由化や関税引き下げを、最初に、実現可能性の大きい近隣諸国から進め、やがて世界全体へ拡大していこうとする段階的接近法をとる。このように、リージョナリズムもグローバリズムも、方法は異なるが自由化という目標は同じである。
第二次大戦後のヨーロッパは、戦争による破壊、植民地の喪失などにより、政治的にも経済的にもどん底であり、実に惨めな状況に置かれた。この状態からヨーロッパが立ち直るには、狭い国家の枠で行動していてはだめだという危機感が生まれ、小国分立の状況を脱し欧州統合を実現しようという運動へと発展していった。
西欧地域統合は、アメリカも強く支持した。ソ連が東欧を支配し、共産勢力が強くなってきたため、西欧諸国が統合し発展することは、自由世界の安全保障上、必須のものとなってきたからであった。この状況下で、1947年マーシャル国務長官は、ヨーロッパへの復興援助であるマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)を発表した。このとき、アメリカは、援助の条件として西欧諸国の結束と協力を要請した。その結果、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が発足し、西欧は地域統合へ動き出した。
この地域統合は、次のような経済的要因も背景にあったのである。第一は、近代の工業は巨大な設備による大量生産を行うことから、消費のはけ口としての大市場が必要であるということである。ヨーロッパでは、小国が分立し一国規模では大量生産のはけ口がなく、過剰生産になるという問題があった。そのため、輸入制限や関税を撤廃して、大市場を形成することが必要であった。第二に、西ヨーロッパの古い寡占体制を打破して,経済の活性化を図るためには,貿易や資本の自由化、関税引き下げにより経済に刺激を与えることが必要であった。第三に、資本や労働力などの生産要素を域内で自由に移動させることにより、資源の最適配分を達成でき、経済が発展するということである。例えば、労働力の豊富なイタリアから労働力不足のドイツへ、労働力が移動すれば、両国の経済の発展に寄与すると言える。
西ヨーロッパで本格的な経済統合のきっかけとなったのは、既述のOEECであった。OEECは、1948年に西欧18カ国の加盟により結成された。最初は、マーシャル援助の受け入れを目的としていたが、50年に下部機構の欧州支払同盟(EPU)を設立し、加盟国間の貿易の多角的決済を促進し、域内貿易の拡大と自由化に大きな貢献をした。OEECが、ヨーロッパの復興に果たした役割は大きなものがあった。
さらに濃度の強い統合が望まれ、1世紀以上対立してきた独仏を含む欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が,誕生した。これは、独仏のほかにイタリアとベルギー,オランダ,ルクセンブルク(ベネルックス三国)の6カ国が加盟し、53年に発足した。目的は、重要資源である石炭と鉄鋼について、貿易障壁を撤廃して単一市場を実現し、その生産は超国家的な最高機関の管理の下に、各国間の政策を調整することにおかれた。 欧州統合に向け画期的試みであったECSCは、順調に発展し、2つの資源の単一市場が形成され、生産も回復し軌道に乗った。
他の部門別統合体は、ECSCのほかに欧州原子力共同体(EURATOM)だけであった。そして、より総合的な統合に向け討議が行われ、誕生したのが欧州経済共同体(EEC)である。
ECSC加盟6カ国は、ECSCより総合的な経済統合を目指した。57年には、各国の意見がまとまり、ローマで画期的なEEC条約(ローマ条約ともいう)の調印が行われた。そして、58年にEECは発足した。 EECは、70年に完全統合を実現することを目標にスタートした。そして、段階的に統合を進める計画を立て、三段階に分けた。第一段階は、全生産物について単一市場の形成を目指し、関税同盟(域外に対し共通関税を設定すること)を目標にスタートした。第二段階は、一歩進め、域内の生産要素の自由移動を加えた共同市場を目標にした。第三段階では、通貨・金融・財政制度の統合を進め、経済同盟から完全な統合を実現させることである。
EECの第一段階の進展は、顕著なものがあった。域内の数量制限は、工業製品については、例外を除き当初の予定より8年も早く全廃された。また、域内関税の引き下げについても、当初計画の30%を大幅に下回った。域外共通関税の設定でも、工業製品は計画より1年も早く実施された。このように、加盟国間の貿易障壁は迅速に撤廃されていき、域内貿易を急増させた。そして、この恩恵を最も受けたのは、製造業で優位に立つ西ドイツであった。
EEC発足後の6カ国の成長率の上昇は,顕著であった。高度成長のすべてが経済統合によるものではないにしても、統合による貿易の拡大や競争激化などにより、域内が活性化したことは明らかである。
しかし、第二段階移行に当たり、最大の難関となったのは、共通農業政策であった。その原因は、加盟国間での農業の生産性の格差であった。西ドイツの農業は生産性が低く、政府の補助金で手厚く保護されていた。一方、フランスの農業は生産性が高かった。共通農業政策により自由化が行われると、西ドイツは大きな痛手を受け、フランスの利益は大きかった。両国は真っ向から対立した。したがって、共通農業政策は漸進的に進めるということで辛うじて合意を得たが、なにかと対立の種となり、その後の経済統合の阻害要因となるのであった。
戦後アメリカは、ソ連・東欧に対する安全保障の必要から西ヨーロッパの復興と結束を強く望み、西ヨーロッパの統合を支持してきた。しかし、EECが統合に向けて目覚しい成果をあげるにつれ、逆に恐れを抱き始めた。EECが完全に統合すると、アメリカに匹敵する一大経済圏になるからであった。アメリカが特に恐れたのは、EECが戦前のブロック経済圏のように排他的なものになるのではないかという点であった。これに対して、アメリカが、事前に阻止するために打ち出したのが63年のケネディ・ラウンド(関税一括引き下げ交渉)であった。アメリカは、このGATTの関税引き下げ交渉に臨んだが、その目的はEECの排他性・封鎖性を打破することであった。
アメリカのEECへの接近は、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を経済協力開発機構(OECD)に61年に改組し、それに加盟したことにも現れている。その後、先進各国が加盟した。これは、EECをグローバルな方向へ誘導する意図が含まれている。OECDは、現在先進国のクラブ組織となっている。
一方、隣国のイギリスが、当初EECに参加しなかったのは、EECを過小評価していたこともあったが、EECが当初から関税同盟を目標にしていたため、域外へ各国の自主性を認めていなかったためである。イギリスにとり、EEC貿易より対英連邦諸国との貿易の方が利益が大きかったため、EEC加盟によりそれを放棄することには抵抗があったのである。しかし、予想に反して、EECは、かなりの成果を上げた。そのため、そのままでは、イギリスのヨーロッパでの地盤の低下は、必然的であった。
第二段階移行により、もはやEECは引き返すことができない状況となった。農業問題など統合の危機はいくつかあったが、統合は後退することはなかった。そのなかで、転機となったのが、67年の欧州共同体(EC)の成立であった。ECは、いままでの三共同体であるEEC,ECSC,EURATOMの執行機関が統合されたものであった。このため、三共同体の最高機関である各委員会は一本化され、EC委員会となり超国家的性格をさらに強めることになった。そして、三共同体の閣僚理事会もEC閣僚理事会に統一され、EC委員会の監視的役割を果たすことになった。
69年に、ハーグの6カ国首脳会議では、ECが経済・通貨同盟の完成に向かうことが表明された。
EECは、70年までを過渡期として統合を進めてきたが、その成果はどうであったろうか。第一の関税同盟については、域内関税が68年7月には全廃され、さらに域外共通関税は68年7月に実施された。EECの第二の目標は、生産要素の自由移動であった。生産要素の移動の自由化は、人々の生活がからんでいるため難しい面があった。資本移動の自由化は、世界的趨勢もあり、順調に進んだ。しかし、労働力の移動の自由化の全面実施が決定されたのは、68年のことであった。しかも、漸進的な実施であった。サービスの自由化については、決定が持ち越され、自由化が進んだのは、他の先進国の趨勢と合わせ、70年代の後半からであった。第三の目標は、共通政策の採用であったが、最大の難関は共通農業政策であった。既述のように、農業は加盟国間で大きな格差があり、それに対し様々な保護措置や規制が行われていた。そして、各種規制の共通農業政策の一つとして、高い共通価格が決定されていたため、域内生産の増加と輸入増加を誘発し、農産物が過剰となった。共通価格を維持するためには、EEC当局が買い支えなければならず、EECの財政を大きく圧迫する要因となった。
このように、EECは、農業で問題は残ったが、関税同盟や共同市場の形成については一応の目標に達したといえる。しかし、経済統合は、通貨・財政・行政・政治などの制度的統合が不可欠である。これまでを消極的統合とすれば、積極的な統合の段階である。70年代のECの課題は、制度的統合をいかに進めていくかであった。
加盟国の拡大で意義が大きかったのは、イギリスの加盟であった。ECに未加盟のままでいると、ヨーロッパでのイギリスの地盤の低下は明らかであったため、イギリスは、61年、67年と加盟を申請したが、フランスのド・ゴール大統領の反対により,実現しなかった。しかし、69年にECが拡大交渉を再開すると意志表明したことにより、三度イギリスの加盟交渉が再開され、73年にやっとEC加盟が実現した。このとき、アイルランド、デンマークも加盟し、ECは、9カ国へ拡大した。81年にはギリシャが加盟し、86年にはスペイン、ポルトガルが加盟し、12カ国となった。
このようななかで、ECは域外諸国に対して、様々な関係を築いてきた。アメリカや日本など先進国には、GATTにおいて関税引き下げや非関税措置の撤廃などにより、封鎖性の危惧の払拭に努めた。そのため、域内に比べると域外への障壁は高いが、日米などの先進国は域内に比べ目立って高くはない。そのため、ECは戦前のブロック経済圏のようになるのではないかという批判は当たっていない。また、統合により経済成長が加速し、域外からの輸入を増加させるというメリットもあるのである。
69年のハーグ6カ国首脳会議で、共同体の完成・拡大・深化について、決意が表明された。これに沿い、70年代以降、前項で見たとおりECの拡大は順調に進展した。しかし、ECの深化は、容易でなかった。ハーグ会議で表明された目標は、経済・通貨同盟の完成であった。これが実現すると、現在各国政府が行使している主権は共同体に移行し、最終的に財政・通貨が統一されるのである。このような状況は、一挙に実現できるものではなく、ハーグ会議においても、段階的に進められることで一致した。
完全な統合には、通貨統合、経済統合、制度統合、対外政策の4つの領域があるが、これらは並行して進められなければならない。このなかで、最ももたついたのは通貨統合であった。
(1) 変動幅の縮小 ECが目標にした通貨統合とは、同盟内を統一通貨が流通し、それを管理する超中央銀行が存在するということである。しかし、これを一挙に達成するのは無理なため、加盟国に平価を設定させ、為替相場の変動幅を徐々に縮小していき、最後にゼロにして為替相場を平価比率に一致させるという方法をとった。そうすると、実質的に単一通貨と同じになると考えたのである。
71年のスミソニアン協定では、IMF加盟国間の為替相場は、対米ドルの上下各1%から2.25%へ拡大され、最大幅は4.5%となった。そして、72年に、ECは変動幅縮小計画により、EC通貨相互の変動幅をその半分の2.25%とし、それを維持するための市場介入を義務付けた。このように、EC通貨は、最大幅2.25%で変化することになり、「トンネルのなかの蛇」といわれた。
しかし、当時はニクソンショックの後で、国際通貨情勢はかなり不安定であった。また、73年には、変動相場制に移行する国が相次いだ。ECとしては変動幅縮小という当初の方針を変えるわけにはいかず、そこで採用したのがEC通貨間では2.25%の変動幅を維持し、対ドルでは変動相場制をとるという共同フロート制であった。しかし、イタリア、イギリス、アイルランドは、これに参加しなかった。
73年秋に石油ショックが生じ、EC各国はインフレ、不況、国際収支の赤字のトリレンマとなったが、その状況は国により大きく異なっていた。そのため、共同フロートからの離脱や復帰が頻繁に起こった。しかし、ここで経済・通貨同盟の道を断念するわけにはいかなかった。
(2) 欧州通貨制度(EMS)
このような困難から生まれたのが、78年の欧州理事会で合意に達した欧州通貨制度(EMS)であった。EMSは、共同フロートには変わりはないが、次のような進展があった。第一は、欧州通貨単位(ECU)の創設であった。ECUは、各国通貨価値の加重平均で決まり、各国は、自国通貨価値をECUに対し2.25%の変動幅で維持しなければならない。そのために、市場介入が義務付けられる。この介入のために、EMSは、資金供与機関として欧州通貨基金(EMF)を参加国の出資により設立した。EMFは、この限りではIMFの欧州地域版といえる。こうして、ECは通貨統合に向け一歩前進したが、80年代にも、加盟国間の経済状況の相違により、平価調整が絶えず行われた。
(3) ヨーロッパ連合(EU)と単一通貨ユーロの誕生
80年代には、先端技術などの分野で、日米に対する欧州の遅れが切実なものとなり、またNIEs(台湾、韓国,香港、シンガポールの新興工業経済群)などの発展の脅威もあり、市場統合を完成させEC経済を活性化させなければ、対抗できないという危機感があった。そのため、市場統合が加速され、92年末に市場統合=単一市場が形成された。これにより、域内の人・物・資本の移動が自由となった。
93年11月に、統合の一層の推進のため、加盟国の批准により、欧州連合条約(マーストリヒト)が発効し、ECの市場統合を経済・通貨同盟また政治的統合へと発展させる欧州連合(EU)が発足した。EUは、先のECの12カ国にフィンランド、オーストリア、スウェーデンの3カ国が加わり、15カ国から構成された。 98年5月に、イギリス、デンマーク、スウェーデン、ギリシア(通貨統合を希望しないか通貨統合への参加のための健全な財政基準を満たしていない国)を除くEU11カ国の経済通貨統合への参加が決定された。単一通貨ユーロの普及過程を経て、遅くとも、2002年には、紙幣とコインは単一通貨ユ−ロが、各国の個人取り引き段階で流通することになった。また、ユーロ導入後の単一金融政策のために、欧州中央銀行(ECB)が、98年6月に発足した。ECBの金融政策は、政策委員会により決定される。政策委員会のメンバーは、ECB役員と参加国の中央銀行総裁であった。ユーロ導入後の単一金融政策のため、参加11カ国は、政策金利を12月3日に3.0%に引き下げ、収束させた。
12月31日に、ユーロと参加11カ国通貨との交換比率が決まり、99年1月に、単一通貨ユーロが誕生した。