インフォーメーション・サービス63:
2004年度対策 経済事情概説
[日本経済事情] | [世界経済事情] |
T 日本経済の動向 | T 世界経済の動向 |
U 家計支出 | U アメリカ経済 |
V 企業部門 | V EU(欧州連合)経済 |
W 我が国の国際収支 | W 東アジア経済 |
X 我が国の直接投資 | X 市場経済移行諸国 |
Y GATTとWTO | |
Z 金融市場 | |
[ 雇用情勢 | |
\ 我が国の景気循環 |
T 日本経済の動向
1 バブル経済とバブル崩壊
(1) 1980年代後半の株価・地価などの資産価格の大幅な上昇
理由 a.企業収益の急激な上昇、オフィス需要の増加、金利の低下 b.投機的需要の拡大によるバブルの発生
株価・・・89年末に、3万8915円のピークに達した。地価・・・83年ごろに東京都心の商業地より上昇し始めた。87年に大阪、名古屋、89年に地方圏へと地価上昇が波及していった。
(2) 金利上昇によるバブル崩壊
株価・・・90年に入ると急落し、イラクのクウェート侵攻による湾岸危機もあり、10月にはピーク時の約半分の2万円近くまで、下落した。地価・・・91年に本格的に低下し始めた。これは、金利の上昇、土地関連の税制の見直し、土地関連融資の総量規制などによる。
2 90年代の日本経済の低迷
90年代は、「失われた10年」ともいわれ、実質GDP成長率も、0%台や1%台の年度が多かった。その背景には、バブル崩壊による資産価格の下落による倒産、銀行の不良債権の累積が挙げられる。90年代の例外としては、96年の4.4%成長である。これは、消費税引き上げの駆け込み需要が、大きく働いた結果であった。
3 最近の日本経済
(1) 2000年11月からの景気後退とデフレ
2000年11月からの景気後退は、2000年後半からのアメリカ経済の景気減速やIT不況による。景気動向指数の一致指数も、2000年後半から50%を割る月が出始め、2001年からは50%割れの月が続いた。輸出が減少し、設備投資や住宅投資が大幅に減少した。2001年度は、実質GDP成長率が−1.4%と戦後3回目のマイナス成長となった。また、名目GDP成長率が−2.5%と、99年以来のデフレの進行が明白となっている。デフレは、企業の債務を増加させ、銀行の不良債権を増やし、経済活動の足を引っ張るという大きなマイナス面があるのである。
(2) 2002年1月からの景気拡大
2002年に入り、アメリカを初めとした世界経済の回復により、日本経済も景気後退から脱し、回復基調にあった。2002年2月から、景気動向指数の一致指数も50%超の月が続いている。
2003年は、デフレの終息の見込みが立たないことや、年後半の円高の進行に先行きの景気が懸念されたが、10〜12月期の実質GDP成長率が年率換算で欧米を上回る7.0%の高成長となった。さらに、2004年1月の鉱工業生産指数が予想を上回る伸びとなり、2月末から円安基調となり、景気拡大の弾みがついている。
U 家計支出
1 個人消費の減少が続く
現金給与総額や可処分所得が減少し、個人消費の減少が続いている。2002年も、2001年に続き現金給与総額が前年比2.3%減と減少が続き、最大の落ち込みであった。景気後退下で、個人消費は、2001年度は3.4%減と急減し、景気後退の大きな要因となった。回復に転じた2002年度も、個人消費は、0.6%減と低迷している。
2 住宅建設の推移
(1) 99年の住宅減税拡充措置は、ローン残高の一定割合を税額控除する控除期間が6年間から15年間に延長され、控除額の最高額も170万円から587.5万円へと3倍以上拡大された。ただし、適用期間は99年から2001年6月中に居住した者のみである。分譲マンションの平均工期は13ヶ月であり、この減税は2000年半ば頃まで効果を与えたといえる。そのため、99〜2000年まで、分譲マンションを中心新設住宅着工戸数は堅調に増加した。
(2) しかし、2001〜2002年の新設住宅着工戸数は、減少に転じた。税額控除額が縮小されたことや、景気後退感が強まるなか、住宅購入に慎重な姿勢が強まったことも大きな要因である。
V 企業部門
1 設備投資の動向
(1) 実質民間設備投資は、景気拡大期には増加し、景気後退期には減少する傾向にある。
(2) 2001年からの景気後退により、2001年度の実質民間設備投資は、4.8%減と大きく減少した。そして、2002年の景気拡大過程においても、設備投資の回復は見られず、四半期ベースでは前期比15%前後の減少が続いていた。
(3) しかし、2003年4〜6月期から、設備投資は、前年比でプラスの伸びに転じ、景気回復を印象付けている。
2 企業収益
(1) 2000年度の上場企業の経常利益は、IT需要が上期に拡大したため、前年度比41%増えた。また、97年度以来の増収増益となった。
(2) しかし、景気後退入りした2001年度の上場企業の経常利益は、前年度比42.4%減となり、IT不況とリストラにより3割の企業が赤字となった。
(3) 2002年度は、景気回復により、売上高が前年度比0.8%増、経常利益が前年度比70.6%増となり、2000年度以来の増収増益となった。
(注)経常利益とは、企業の毎年の経常的な活動により、生じた利益である。営業利益プラス営業外利益により、計算される。
3 企業倒産の増加
(1) 2000年度の倒産件数は、前年度比12.1%増の1万8,787件と戦後3番目であり、負債総額は前年度比2.3倍の25兆9812億円と戦後最悪であった。協栄生命、そごう、建設業などの大型倒産が相次いだためである。要因別には、不況型倒産が、7割前後である。
(2) 2001年度は、倒産件数が前年度比5.9%増の1万9,565件となり、戦後2番目の水準であった。また、負債総額は、16兆1408億円で前年度比37.9%減であるが戦後2番目の高水準であった。
(3) 2002年度の倒産件数は、1万8,587件と戦後4番目の高水準であった。負債総額は、13兆3,099億円と過去最高の2000年度の半分程度に減少した。しかし、公的融資制度の拡充や、銀行が上場企業向けの不良債権処理を急いできたため、中小企業向けの不良債権処理が先延ばしされており、経済実態を反映してない。
(4) さて、信用保証協会による肩代わり弁済すなわち代位弁済は、2001年度に前年度比15%増の1兆2350億円と過去最大となった。2002年度も代位弁済は、前年を上回るペースで増加し、債権回収も進んでいない。結局、国費の投入につながることもありうる。
W 我が国の国際収支
1 最近の経常収支黒字の状況
(1) 98年度は、輸出の減少以上に輸入が大幅に減少したため、経常収支黒字も大幅に増加し、15兆7846億円と過去最高となった。また、所得収支の黒字増もこれを支えた。
(2) 99年度の経常収支黒字は減少し、12兆1738億円であった。円高により輸出金額の減少が大きかったことによる。
(3) 2000年度の経常収支黒字は、微増の12兆6207億円であった。円高により、貿易収支黒字は10.2%減少した。しかし、サービス収支が、円高により支払いが減ったことや特許の使用料収入の増加により、赤字が約1兆円縮小した。一方、所得収支は前年比8.9%増となった。このため、貿易収支黒字が相当減少したが、経常収支黒字は増加したのであった。
(4) 2001年度の経常収支黒字は、前年比17.3%減の10兆6523億円であった。これは、貿易収支黒字が、前年比32.1%減と約4.1兆円減少したためである。貿易収支黒字の減少は、輸入の伸びが若干低迷した一方で、世界経済の減速により輸出が大きく減少したためである。
(5) 2002年の経常収支黒字は2年ぶりに増加し、33.8%増の14兆2,484億円であった。貿易収支黒字が37.5%増加したためである。
2003年も、経常収支黒字は増加し、11.6%増の15兆7,853億円と、98年以来、過去最大の黒字を記録した。世界的な景気の回復で輸出が伸び貿易収支黒字が膨らむ一方で、イラク戦争やSARSの影響で海外旅行が減少したことが主な要因である。
2 貿易相手国
(1) 2000年の日本の輸出全体に占める対アジアのシェアは。43.4%である。また、同年の日本の輸入全体に占める対アジアのシェアは、54.7%である。2002年の輸出入合計の上位10カ国を見ると、7ヶ国はアジア諸国である。
(2) 特に、中国からの輸入が急増しており、2002年の中国の輸入シェアは、18.3%とアメリカを超え第一位である。中国向け輸出も、アメリカに次ぎ第二位である。
3 我が国の資本収支
(1) 経常収支黒字が拡大すると、資本の流出は増え、資本収支赤字は増加する。海外との貿易で得た資金を、海外に投資しているのである。
(2) 2002年の資本収支赤字は、経常収支黒字を反映し、前年比28.8%増で7兆9,784億円の黒字であった。このほとんどが、直接投資や証券投資などの赤字を含む投資収支赤字であった。
X 我が国の直接投資
直接投資は、投資する国の企業の国内収益力が上昇するほど、つまり親会社の業績が上向くほど、またその国の為替レートが上昇するほど、増加するといえる。
1 我が国の対外直接投資
(1) 99年度の対外直接投資は、約667億ドルと前年度比63.7%増であった。これは、過去最高の89年に次ぐ高水準であった。製造業投資が前年度比200%以上の伸びを見せたためである。一方、非製造業投資は、金融・保険業が大きく落ち込んだため、前年度比14.1%減となった。
(2) 2000年度の対外直接投資は、485億8000万ドルと前年度比27.2% 減であった。前年の高い伸びの反動で、大きく減少した。特に、製造業投資が、IT関連分野等の大型投資が反動減となったため、前年度比72.4%減となったことが大きく影響した。
(3) 2001年度の対外直接投資は、前年度比27.2%減の485億8000万ドルと前年に続き減少した。これは、内外の景気後退が響いており、86年以来の低水準であった。
(4) 国別では、2001年度は、第一位がアメリカで、63億7,000万ドルであった。次が、ケイマン諸島、そして、オランダ、イギリスと続く。
(5) 日本の東アジア向け製造業投資は、85〜87年度までは、NIEsが日本の最大の投資先であった。88年度以降、ASEAN4が、NIEsに取って代わった。そして、95年度には、中国がASEAN4に代わり、約45%を占めた。しかし、中国では、96年度以降、外資系企業の設備の輸入関税の免除が廃止されたこともあり、中国のシェアは急減し、96年度以降、ASEAN4が最大となった。したがって、日本の東アジア向け投資は、中国に一極集中しているとはいえない。
2 我が国の対内直接投資
(1) 2000年度の対内直接投資は、282億7600万ドルと前年度比31.5%増となり、3年連続で過去最高となった。なかでも、金融・保険業と通信業の伸び率が顕著であり、この2業種で、3分の2を占める。
(2) 2001年度の対外直接投資は、前年度比38.4%減の174億500万ドルとなり、4年ぶりの減少となった。しかし、2001年の世界の直接投資も半減しており、世界的な低迷を反映したものである。
(3) 対内・対外直接投資比率は、97年度に1:9.8であったが、98年度以来3年連続過去最高となったため、同比率は、2000年度には1:1.7とかなり縮小した。
Y GATTとWTO
1 貿易摩擦
(1) 1960〜70年代は、アメリカやECとの貿易摩擦があったが、80年代ほど貿易摩擦が顕在化していなかった。変動相場制への移行により、国際収支が調整されるシステムが整えられつつあったことや、二度の石油危機に対処することに先進国のエネルギーが割かれたためである。 (2) また、70年代のGATT東京ラウンドにより、関税が引下げられ、世界貿易は着実に拡大していった。
GATT:関税及び貿易に関する一般協定(3) しかし、80年代にアメリカが財政赤字により国内需要が過剰となったことや、 高金利によるドル高により、貿易赤字体質が定着することになった。また、日本やアジアの技術発展もアメリカを脅かし、アメリカは自国産業の保護策に走らざるをえなかった。
(4) 対米黒字は高水準が続き、我が国の大幅な貿易収支黒字が問題にされるように なった。その結果、89年9月から開催された日米構造協議は、マクロ的な日米経常収支の不均衡対策であり、不均衡をもたらす構造問題に取り組み、両国間の経済関係を円滑に推進していくことが目的であった。
日米構造協議での合意事項日本側:91〜2000年度の公共投資10カ年計画の総額を430兆円とした。系列的取引や排他的取引慣行の是正
アメリカ側:財政均衡法による財政赤字の削減、アメリカの競争力強化の促進
(5) 93年7月に、日米両国は、構造協議も含む日米包括経済協議を発足させた。 これにより、94年の首脳会議で政府調達手続きの改善、保険などの規制緩和に進展が見られ、環境、人口、エイズなどについて両国の協力の合意が見られた。しかし、貿易の個別分野に関する客観的基準と数値目標については、合意には至らなかった。日本側も、規制緩和、競争政策の推進、政府調達手続きの改善、投資や輸入の促進、電気通信、保険などの優先分野の市場アクセスの改善について、自主措置を決定した。
2 世界貿易機関(WTO) の発足
(1) 最近の貿易摩擦の特徴は、知的所有権(ソフトウェアやバイオテクノロジーなど)の保護、直接投資の自由化、サービス産業の規制緩和など、いままで問題にならなかった分野での摩擦が生じていることである。
(2) 残る貿易障壁の削減のうえに、このような新分野についても交渉を進めることが合意されたのが、GATTウルグアイ・ラウンドであった。ウルグアイ・ラウンドは、7年以上の交渉の後、94年4月に合意され、市場アクセス分野やルール分野で多くの合意がなされた。例えば、先進国の平均関税率の40%引下げや紛争処理手続きの迅速化などである。
(3) ウルグアイ・ラウンドで合意された内容を実施するために、95年に76の国・地域の参加により、世界貿易機関(WTO)が設立された。WTOには、貿易に関する加盟国間の交渉の場、各国の貿易政策の審査などの機能もある。
(4) GATTが主に物品の貿易のみを扱ってきたのに対し、WTOはサービス貿易、知的所有権、直接投資などの新分野も対象としている。
(5) 2001年11月の閣僚会議で、新ラウンドの開始が宣言された。全体を統括する貿易交渉委員会の下に、次の5つの交渉グループが存在する。
a.農業 b.サービス c.鉱工業品 (a〜cは市場アクセス)
d.環境保護と貿易の関係 e.WTOの既存ルールの見直し
(6) 2003年9月末現在で、WTOは146カ国・地域が参加している。中国と台湾は、2001年に加盟が承認された。また、ロシア、サウジアラビアなどが、加盟に向け交渉中である。各国とも、WTOへ参加し、貿易・投資の自由化と経済成長の促進を目標としているのである。
Z 金融市場
1 超低金利の金融市場
(1) 公定歩合は、91年から95年まで7回引下げられ、95年には0.5%となり、超低金利の市場となった。
(2) 95〜96年度に、駆け込み需要もあり、3〜4%の成長となり景気は完全に立ち直ったかに見えたが、消費税引き上げ、アジア危機などにより、97年度以降景気後退となり、99年2月から、日本銀行が、無担保コールレートを実質ゼロ水準に維持する資金供給を、2000年7月まで行った。
(3) 2001年に景気後退に入ったため、2〜3月と2回公定歩合が引下げられ、0.25%となり、同時多発テロによる景気後退懸念により、9月に公定歩合は0.1%となった。また、日銀の国債買いオペなどによる潤沢な資金供給により、4月から再び無担保コールレート翌日物がゼロ金利となった。
(4) 公定歩合も金利も下限に達し、日銀がさらに行った政策は、潤沢な資金供給であった。それは、日銀当座預金残高目標と長期国債買い入れ額の引き上げであった。双方とも徐々に引き上げられ、前者は、2003年5月に22〜27兆円程度となり、後者は、2002年10月に月1兆2,000億円程度となった。
(5) さらに、日銀は、2003年4月に、中小企業の売掛債権などを裏付けに発行する資産担保コマーシャルペーパー(CP)などを新たに購入する方針を打ち出した。これは、中小企業の資金繰りを容易にするためである。
2 ペイオフ解禁
(1) 2002年4月の定期預金のペイオフ解禁により、1000万円以上の定期預金の2002年5月末の残高は、前年度同月比で42兆円も減少し、93兆円であった。しかし、1000万円未満の定期預金は、横ばいである。
(2) 解約された定期預金が向かった先は、普通預金である。2002年5月に、普通預金を含む要求払い預金の残高が、約237兆円と定期預金を初めて上回った。
(3) 都市銀行の預金残高は、2002年に入ってから前年同月比で6〜12%の高い伸び率を示し続けている。また、ペイオフの対象外である外国銀行も法人預金などが急増している。一方で、第二地銀は、減少が続いている。預金者は、ペイオフ解禁により安全な金融機関に預金をシフトさせているのである。2005年4月には、普通預金もペイオフ解禁となるため、弱小金融機関の建て直しや再編は急務である。
3 不良債権処理
(1) バブル崩壊により、企業収益が悪化し増加させた借り入れの返済負担が重くなり、さらに、不動産担保価値が下落すると、金融機関の貸出債権は不良債権化するのである。
(2) 2000年度末の大手銀行の不良債権残高は減少し、19.3兆円となったが、2001年度末には、前年同期比8.4兆円増加し、28.4兆円となった。デフレにより不良債権が新たに発生したことに加え、金融庁の特別検査により、銀行が融資を厳しく自己査定したためである。 すべての民間金融機関の不良債権残高は、2001年度末には前年同期比9. 5兆円増え、52兆4000億円となった。この増加額は、ほとんど大手銀行のものである。
(3) 地方銀行と第二地方銀行の不良債権残高は、年々増加しており、2001年度末には、14.8兆円にまで増加した。
(4) 大手銀行は、不良債権処理損(貸し倒れに備えた引当金や債権放棄)が、2001年度に本業の設けである業務純益の倍以上の8兆円規模となり、保有株の含み損処理などもあり、連結ベースの大手銀行の最終赤字は4兆2924億円に達した。
(5) 2002年度(2003年3月期)決算では、大手銀行7グループの不良債権残高が、合計約21兆円と前年同期比で23%減少した。不良債権の最終処理を約12兆円と倍増させたのが主な要因である。政府は、2005年3月末までに、大手銀行の不良債権比率を、2002年3月末から半減させることを目標としており、各行とも対応を急いだのである。
[ 雇用情勢
1 雇用の状況
(1) 99年1月を底とする景気拡大過程のなかで、2000年度は雇用が増加し、4四半期連続で雇用者数はプラスの伸び率であった。建設業、製造業は依然として減少する中で、サービス業の雇用が大幅に増加したのが主な要因である。
(2) 2001年も雇用者数は、5369万人と13万人増え、2年連続の増加となったが、景気後退を反映して、年後半は62万人の減少となった。2002年も、雇用者数は、5,331万人と38万人減少した。
(3) 自営業者を含めた就業者数は、2002年に6,330万人で82万人減少し、5年連続の減少となった。この5年間、雇用者が増加した年もあったが、それを上回って自営業主とその家族従業者の減少が生じたためである。
2 パートタイム労働者比率の増加
パートタイム労働者比率は、上昇しており、92年に13.8%であったが、2001年には21.0%に上昇している。
上昇の理由
(1) 一般の労働者に比べ、人件費が半分程度である。(2) 特定時間の労働投入が可能であることである。
(3) 景気変動に応じた労働投入の調整が可能であることである。
3 現金給与総額の変化
(1) 98年に戦後初めて現金給与総額が減少した。これは、所定外給与(残業手当)や特別給与(ボーナス)が大幅に減少したためである。そして、パートタイム労働者の増加も平均給与の低下に寄与している。
(2) 99年も現金給与総額は、2年連続下落したが、残業の増加により所定外給与が増加に転じた。
(3) 2000年の現金給与総額は、所定外給与がさらに増加したことや所定内給与も増加に転じ、3年ぶりに増加に転じた。
(4) 2001年の現金給与総額は、2000年11月からの景気後退により、前年比1.1%減少した。所定外給与と特別給与の減少が大きかった。
(5) 2002年の現金給与総額は、34万3,688円と前年比2.3%減少し、最大の落ち込みであった。デフレの下で、コスト削減のため、賃金低下に歯止めがかかっていないことを示している。所定内給与が1.2%減、特別給与が7.2%減と、いずれも最大の落ち込みであった。
5 完全失業率の増加
完全失業率は、長期的に上昇傾向にあり、特に98年以降は急上昇しており、2002年は5.4%であった。完全失業者数も、2002年は359万人であった。自発的失業者も依然多いが、リストラによる非自発的失業者がそれ以上に増加している。
(1) 完全失業率上昇の要因
(2) 雇用のミスマッチa.企業のリストラにより、入職者より離職者のほうが多い。
b.リストラや給与の減少により、非世帯主が就職しようとしている。
c.雇用のミスマッチによる。
若年層(15〜24歳)は、2000年の失業率が9.2%であり、適職を見つけられない失業が多くなっており、構造的失業であり、ミスマッチである。これは、欠員率と失業率が一致した状況で、需要不足のない失業である。
一方、高年齢層(60〜64歳)の失業率も上昇しており、2000年の失業率は7.7%である。リストラ後も求職活動を行っているのである。これは、需要不足による面が大きいと考えられる。これも、ミスマッチである。
また、業務の高度化・専門家は進んでおり、専門職・技術職への需要は増加しているが、条件を満たす人材には限りがあり、完全失業率の低下の抑制要因となっている。これも、ミスマッチである。
このようなミスマッチは、拡大傾向にあり、景気が回復しても失業率が高止まりし低下しない理由である。
(3) 長期失業者の増加
失業期間1年以上の長期失業者も大幅に増加しており、91年2月に24万人であったが、2003年4〜6月期には127万人へと増加した
\ 我が国の景気循環
1 主な景気拡大
(1) 朝鮮特需 ( 〜昭和26年6月)
昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発し、アメリカの戦略物資の買い付けによる特需ブームがもたらされた。特需は、日本の幅広い産業に広がり、輸出も増加した。
(2) 神武景気(昭和29年12月〜32年6月までの31ヶ月)
昭和29年下期のアメリカ経済の立ち直りにより、アメリカへの輸出が拡大し、設備投資が増加し、インフレなき拡大と呼ばれた数量景気であった。しかし、景気拡大などによる輸入の増加により、国際収支が赤字となり、景気引き締め策がとられ、昭和32年6月をピークに景気後退となった。
(3) 岩戸景気(昭和33年7月〜昭和36年12月までの42ヶ月)
昭和34年からのアメリカ景気の回復もあり、輸出が増加し投資が増え、景気拡大となった。昭和35年の池田首相による「国民所得倍増計画」や個人消費支出の伸びが、「投資が投資を呼ぶ」長い景気の拡大をもたらした。しかし、昭和36年に入ると、景気過熱現象となり、国際収支も急激に悪化した。そして、金融引締めが行われ、昭和32年6月をピークに景気後退となった。
(4) いざなぎ景気(昭和40年11月〜昭和45年7月までの57ヶ月)
昭和40年不況下に、昭和40年度大型積極予算の結果、昭和40年11月以降、景気は上昇に転じた。需要項目全体が、成長を促進させ高原景気となり、類を見ない57ヶ月の戦後最長の景気拡大となった。しかし、昭和44年9月に景気過熱のため公定歩合が引き上げられ、耐久消費財の在庫が急増し、企業の生産調整が始まり、昭和45年7月をピークに、以降景気後退となった。
(5) 平成景気またはバブル景気(昭和61年12月から平成3年2月までの51ヶ月)
平成景気は、景気循環に加え、資産価格の上昇も加わった景気拡大で、いざなぎ景気に次ぐ51ヶ月続いた大型景気であった(「T 日本経済の動向」参照)。
2 主な景気後退
(1) 昭和40年不況(昭和39年11月から昭和40年10月までの12ヶ月)
再三金融緩和政策が行われたが、その効果はほとんどなく、政府は戦後初めて国債を発行し財政支出拡大を行い、景気を立て直した。そのなかで、山一証券などの大企業が破綻した。
(2) 第一次石油危機(昭和48年12月から昭和50年3月までの16ヶ月)
昭和48年から昭和49年にかけ、48年10月の第四次中東戦争により原油価格が3倍以上上昇した。そのため、石油依存の強い日本経済は、生産低下、物価の大幅上昇、国際収支赤字が発生し、昭和49年度の実質GDP成長率は、戦後初めてマイナス成長となった。しかし、日本経済は、減量経営や省エネルギーに励み、スタグフレーション(景気の停滞とインフレの並存状態)から諸外国よりもいち早く脱出できたのである。
(3) 第二次石油危機(昭和55年3月から昭和58年2月までの36ヶ月)
昭和53年から昭和56年にかけ、原油価格は約3倍上昇した。しかし、日本経済は、第一次石油危機での経験による学習効果から、大幅なインフレを招かず、大きな落ち込みを見せなかった。
(4) 円高不況(昭和60年7月から昭和61年11月までの17ヶ月間)
昭和60年9月のG5(先進5カ国財務相・中央銀行総裁会議)のプラザ合意により、5カ国が為替市場に介入し、9月に237円であった円レートは、61年8月に154円まで上昇した。このため、輸出採算は悪化し、円高不況となった。 それに対し、企業は、海外現地生産や内需の掘り起こしにより、輸出依存型の経営の改善に努めた。このような努力の結果、円高に耐えうる経営を可能し、その後の大型の景気拡大を招いた一因となった。
(5) バブル崩壊(平成3年3月から平成5年10月までの32ヶ月)
バブル的に上昇していた資産価格の下落を伴う景気後退であった。このバブル崩壊後の地価・株価の下落も、名目GDPに匹敵するものであった。このバブル崩壊は、逆資産効果もあり、家計や企業のマインドを萎縮させ、景気循環的要因と重なり、戦後2番目の景気後退の長さとなった。
T 世界経済の動向
1 2001年からの世界景気の後退
(1) 2001年は、世界同時減速により、ほとんどの国が景気後退となった。
(2) ITバブル崩壊により、アメリカが2000年後半から景気減速となり、アメリカへの輸出を中心に各国の外需が減少した。これが、各国の景気後退の大きな要因となった。
(3) IT関連製品の対米輸出の大幅な落ち込みにより、アジア諸国は景気が減速し、特に、2001年には、台湾とシンガポールが、マイナス成長となるほどであった。
(4) 欧州も2001年第2四半期から景気減速となり、2001年の通年の実質GDP成長率は大きく低下した。
(5) しかし、アメリカ経済は、2002年春には景気回復に転じたと見られる。アジアも同時期に回復したと見られる。予想以上に世界経済が早く回復した要因は、次のものが挙げられる。
a.IT関連製品の在庫調整が急速に進んだ。b.原油価格の下落。
c.財政金融政策である。金利が過去最低水準になる国も多かった。
(6) 2002年後半以降、イラク情勢の緊迫化により、欧米を中心に景気回復力は弱かった。アジアでも、対米輸出を中心に輸出が鈍化し、SARSも景気に影を落とした。しかし、2003年後半からは、アメリカを中心に、各国とも成長率が上昇し、世界景気は拡大している。
表10−1 世界名目GDPに占める各国・地域のシェア(1999年)
アメリカ | 30% |
EU | 28% |
日本 | 14% |
東アジア | 8% |
U アメリカ経済
1 1991年4月からの約10年の最長の景気拡大
近年は、IT関連製品が成長を押し上げた。また、民間投資と個人消費の伸びによるところも大きかった。
2 2000年も4.1%の実質GDP成長率
(1) 2000年も需要は力強く伸び、2000年2月に、91年4月からの景気拡大が107ヶ月となり、最長の景気拡大となった。
(2) 失業率も4.0%にまで低下した。しかし、インフレ懸念が高まり、金融引締政策が行われ、公定歩合も99年8月から2000年6月まで5回引き上げられ、6.0%となった。
3 2000年後半からの景気減速
(1) IT関連製品の需要の減退により、後半からの減速は世界景気の減速を誘発するものであった。
(2) 2001年に入り、アメリカ経済は3四半期連続マイナス成長となり、10年ぶりの景気後退となった。2001年の実質GDP成長率は、1.2%と大きく落ち込んだ。そして、失業率も4.8%へと急上昇した。
(3) 2001年9月の同時多発テロによりさらに落ち込んだ景気は、アフガニスタンの軍事行動が早く収束したこと、財政金融政策の効果、そして原油価格の安定などにより、2001年10〜12月期には早くも回復へと向かった。
(4) 2002年は、回復基調にあり、個人消費が景気をけん引し、実質GDP成長率は2.4%であった。一方で民間投資は大きく減少し、失業率も5.8%へと上昇した。イラク情勢による緊迫化により、2002年後半から2003年前半まで回復力は弱まったが、FRBによる利下げや原油価格の下落により、2003年後半には、戦争による下押しはほぼなくなり、高い成長となり、2003年の実質GDP成長率は3.1%となった。また、失業率も2003年6月には6.3%まで上昇したが、景気回復を背景に、同年後半には下落を続けている。
3 財政収支の状況
(1) 80年代に、アメリカの財政赤字は一貫して増加してきた。
(2) クリントン政権下では、歳出の抑制や削減策が図られた。そして、大統領と議会が2002年までに財政を均衡させることで合意し、97年度の予算教書で示された。
(3) 98年度には、景気拡大による税収の大幅増と政府支出抑制により、29年ぶりに約692億ドルの黒字に転じた。99〜2001年度も1000億ドルを超える黒字が続き、特に、2000年度は約2370億ドルの大幅な黒字であった。
(4) 2001年6月に、ブッシュ大統領は、財政黒字を家計に還元する大型減税を決定した。また、9月の同時多発テロのための緊急歳出や国防費の膨張、航空業界への支援策、そして税収の減少もあり、2002年度には財政収支は1,578億ドルの赤字になった。97年度以来の赤字である。
(5) 2003年度の財政赤字は、当初800億ドルと見込まれていたが、イラク戦費の累増により、3,742億ドルに膨れ上がった。2004年度は、さらに財政赤字が増加すると見込まれており、赤字削減は急務となっている。
5 経常収支赤字
(1) 経常収支赤字は、ドル安などにより88年以降減少したが、92年以降反転し拡大傾向にある。
(2) 2001年は景気後退により減少したが、前年の2000年は、4447億ドルと過去最大であった。貿易赤字が主な要因で、輸入が輸出以上に増加したためである。輸入の増加は、好景気による。
(3) 2002年の経常収支赤字は、景気回復による輸入の増加により拡大し、5,034億ドルと過去最大となり、対GDP比で4.8%となった。
(4) 巨額の経常収支赤字は、世界からの証券投資などによりファイナンスされていて、経済成長を支えている。
V 欧州連合(EU)経済
1 93年EUが発足
参加15カ国の国民投票による批准により、欧州連合条約(マーストリヒト条約)が発効し、ヨーロッパ共同体(EC)の市場統合を、経済・通貨同盟および政治統合へと発展させる欧州連合(EU)が発足した。
2 90年代以降のEU経済
(1) 90年代初め、ドイツのインフレ抑制のための高金利政策が、EU各国にも影響を与え、設備投資がかなり減少した。個人消費も伸びが鈍化し、世界的景気後退もあり、輸出も低迷していた。そのため、93年にEUの実質GDP成長率は、−0.3%とマイナス成長に陥った。
(2) しかし、世界経済の回復による輸出の増加や、個人消費の増加、そして設備投資の回復により、その後、EU経済は回復基調となった。98年に世界経済の景気後退により、各国とも輸出が伸び悩み、景気減速となったが、以降、順調にEU経済は拡大した。
(3) 99年以降のEU経済は、順調に拡大した。世界経済の好転やアメリカへの資金流失によるユーロ安のための輸出の拡大、また低金利による設備投資の伸び、個人消費の拡大などによるところが大きい。
ユーロ圏の実質GDP成長率 99年―2.3%、 2000年―3.3%(4) 2001年は、世界的景気減速のなかで、ユーロ圏の実質GDP成長率は、1.6%と最近では低い成長であった。特に、2001年の10〜12月期の成長率は年率0.8%減となり、四半期ベースで9年ぶりのマイナス成長となった。ユーロ圏のGDPの7割以上を占めるドイツ、フランス、イタリアの3カ国の成長率が大きく落ち込んだことによる。
(5) 2002年のユーロ圏経済は、個人消費が低迷し、鉱工業生産、固定投資とも減少し、実質GDP成長率は0.9%と、93年のマイナス成長以来の低成長であった。2003年に入っても、2四半期連続でマイナス成長となっており、依然として低迷が続いている。
3 雇用情勢
EU全体の失業率は、他の先進諸国に比べて高水準である。欧州委員会によると、若年層や長期の失業者が増加している。これは、新産業分野に適した人材が確保できないことや、高福祉のため未熟練労働者の労働費用が高いためである。
様々な雇用政策が行われたが、イギリスを除き雇用情勢は厳しい。しかし、99年以降の景気拡大や各国の労働市場対策により、失業率は低下し、2001年のユーロ圏の失業率は、8.0%にまで落ち込んだ。
しかし、2001年以降の景気の低迷により、失業率は上昇傾向にあり、2003年のユーロ圏の失業率は8.8%に上昇した。
一方で、イギリスは、ユーロ圏に比べ堅調な成長を保っており、2003年の失業率も3.1%の低水準である。
4 単一通貨ユーロの導入
(1) 経済・通貨統合への最終段階に向けた動き
ユーロ導入前に、ユーロの導入のための基準達成へ各国の取り組みが行われた。基準とは、財政赤字の対GDP比が3.0%以下、債務残高の対GDP比が60%以下、低いほうから3カ国平均の消費者物価上昇率+1.5%以内の消費者物価上昇率であることなどである。
また、96年の欧州理事会で、「安定と成長の協定」が合意され、ユーロの信頼性確保のため、参加国の財政赤字が対GDP比で3%を超えると、最高で対GDP比の0.5%の制裁金が科されることなどが規定された。
(2) ユーロ参加国の決定
98年5月に、イギリス、デンマーク、スウェーデンそしてギリシャを除くEU11カ国の通貨統合への参加が決定した。12月に、ユーロと11ヶ国通貨との交換比率が決定され、99年1月1日に単一通貨ユーロが誕生した。個人の商取引は当面は、各国通貨で行われたが、2002年に予定通り各国でユーロが流通し始めた。
(3) 欧州中央銀行(ECB)
ECBは、98年6月に発足し、ユーロ導入後は、参加国全体の金融政策を行う。ECBの金融政策は、政策委員会により決定され、政策委員会のメンバーは、ECBの役員と参加国の中央銀行総裁である。
(4) ユーロの変動
当初、ユーロは、減価基調で推移し、2000年10月には発足当初と比較し、対ドルと対円で約30%減価した。このユーロ安や原油価格上昇による物価上昇の懸念のため、ECBは99年11月以降1年で7回利上げを行った。このため、2002年6月に、1ユーロ=0.98ドルと2年4ヶ月ぶりの高値をつけた。その後も、ユーロ高の傾向にある。
(5) EU加盟国の財政赤字
ポルトガルは、2001年に財政赤字が対GDP比で4.1%になり、義務付けられている上限の3%を上回った。また、2002年に、ドイツの財政赤字が対GDP比で3.7%と上限を上回った。両国とも、EU財務省理事会から是正勧告を受けている。フランスも、2002年に財政赤字の対GDP比が3.1%と3%を上回り、是正勧告を受けている。ドイツ、フランス両国とも、2004年まで3年連続で3%を突破するのが確実となっている。両国の「安定と成長の協定」違反に対し、EUの最高意思決定機関である財務省理事会は、事実上容認しており、同協定の形骸化は不可避のものとなっている。
W 東アジア経済
1 NIEs(新興工業経済群)
NIEsは、60〜70年代の関税などにより自国産業の保護育成を行う輸入代替工業化政策から、70〜80年代の外資導入や輸出指向型政策に転換し、成長を遂げた。85年のプラザ合意による円高により、日本を中心として各国の投資が、安い労働力のNIEs諸国へ向かった。NIEsは、急速に成長し、賃金が上昇し為替レートも上昇した。そのため、先進国の資金は、80年代後半はASEAN(東南アジア諸国連合)諸国へシフトした。つまり、労働集約的な産業は、NIEsからASEANへシフトし、ASEAN諸国は、急成長した。他方、NIEsは、資本・技術集約的産業にシフトし、高い成長をその後も維持した。
東アジアは、日本を初めとした先進国からの投資受け入れにより、次第に発展してきたといえる。
2 韓国経済
97年に、過剰投資により財閥企業が次々と倒産し、この不良債権を抱えた銀行への評価が低下した。このような状況下で、アジア通貨危機は韓国にも波及し、97年10月下旬から12月の短期間に、韓国ウォンは約53%下落した。外貨準備の不足により、同年12月にIMFから570億ドルという史上最大規模の支援を受けることになった。この融資の見返りに緊縮的財政・金融政策の厳しい条件を受け入れた。このため、98年は、―6.7%とマイナスの実質GDP成長率となった。99年は、IMFとの合意の下に、通貨・金融危機克服のための経済構造改革に取り組み、10.9%の高成長となり、他のアジア諸国に比べ最も立ち直りが早かった。2000年も、IT関連製品や自動車生産の伸びを中心に、9.3%成長となった。しかし、2001年は、世界景気の後退により輸出や設備投資が減少し、3.1%成長と大幅に減速した。
しかし、2002年は、前半が民間投資や建設投資が景気をけん引し、後半は世界経済の加速により輸出が大幅に増加し、実質GDP成長率は6.3%の高成長となった。
3 台湾経済
台湾は、アジア通貨危機の影響を最も受けなかった。97〜99年も内需に支えられた高成長であった。2000年も、輸出が寄与し、実質GDP成長率は5.9%であった。しかし、2001年は、アメリカ経済の減速により、IT関連製品を主として、輸出や設備投資が大きく減少し、−1.9%と戦後初のマイナス成長となった。
しかし、2002年は、IT関連を中心に中国向け輸出が大幅に増加し、前年のマイナス成長から脱し、実質GDP成長率は3.5%の成長となった。一方、対中投資の増加により、産業空洞化の懸念がある。
4 シンガポール経済
シンガポールは、97年は高い成長であったが、98年は、通貨危機による近隣諸国への輸出減により、実質GDP成長率は0.4%の低成長であった。しかし、以降は回復し、99年は6.9%成長、2000年は10.3%の高い成長であった。しかし、2001年は、世界経済の後退により、IT関連部門の輸出が大幅に減少し−2.0%成長となった。
しかし、2002年には、IT部門は回復していなかったが。科学・薬品製品の生産・輸出の増加により、回復傾向となり、実質GDP成長率は2.2%とプラス成長に転じた。
5 中国の社会主義市場経済
中・東欧諸国の改革が、政治改革から始まり急進的な改革が行われたのに対し、中国は、改革が経済改革から始まり、漸進的に行われてきた。93年3月の全国人民代表大会で、「社会主義市場経済」が憲法に盛り込まれ、「改革・開放路線」が強化された。
(1) 90年代の中国経済
実質GDP成長率は、直接投資の受け入れなどにより、92〜95年まで二桁の成長であった。しかし、消費者物価上昇率が高くなり、93年以降引き締め政策が行われ、96年以降消費者物価上昇率は抑制された。一方で、成長率は高く維持され、結局、90年代の平均成長率は、9.7%であった。
(2) 2000〜2002年の中国経済
90年代後半、高成長とはいえ、成長率が年々鈍化する中で、98〜99年に続き2000年も国債発行により公共投資を増加させ、2000年の実質GDP成長率は8.0%と高い成長となった。2001年は、積極的な財政政策が行われたが、世界経済の後退により、輸出が伸びず、7.3%の成長となり、前年より低下した。
しかし、2002年は、積極的な財政政策、アメリカ向けを主とする輸出の増加、そして、それによる鉱工業生産の増加などにより、実質GDP成長率は8.0%の高成長となった。そして、2001年11月に、WTOに加盟し、翌年1月に関税率が引下げられ、外資系企業の輸出規制が緩和されたことも、輸出の拡大を促進したといえる。
(3) 2001年にWTO加盟
WTO協定は、最恵国待遇と内国民待遇を原則とし、外国のモノ、人、企業の差別を禁止している。それゆえ、中国の市場経済の機能と透明性を強める役割を果たしている。
協定の主な内容
a.全品目の単純平均の関税率を、98年の17.5%から2010年には9.8%へ引下げる。
b.農産物は、同時期に22.7%から15.0%に引下げる。
c.IT関連製品は、関税率を2025年頃には最終的に0%にする予定ある。
d.農産物の補助金の上限を、加盟後は農業生産額の8.5%とする。
e.銀行、保険、流通、電気通信は、外資規制の削減、撤廃の方向である。
(4) 伸びる中国への直接投資
中国の高成長を支えているのは、直接投資の拡大である。 特に、WTO加盟が中国への直接投資を加速した。2001年以降、景気後退により世界の直接投資が減少したにもかかわらず、中国への直接投資は増加を続けた。2002年に、中国の直接投資実行額は、500億ドルを超え、アメリカを上回る世界一の直接投資受け入れ国となっている。
(5) 財政赤字
中国の財政赤字は、慢性的である。財政赤字の対GDP比は、97年の0.8%から2002年の3.0%へと急増している。内需拡大のために、アジア危機以降に大量の国債発行を行ってきたためである。今後も、西部大開発などの大型プロジェクト、国有企業の経営悪化による四大国有商業銀行の不良債権処理に伴う負担など、財政負担の増加は不可避である。
財政赤字が拡大を続ければ、財政の硬直化や民間の資金需要を圧迫し、経済成長を抑制することになりかねない。
(6) 地域格差の発生
高成長を達成してきた中国であるが、一人当たりGDPで約13倍という地域間格差が発生している。2001年の一人当たりGDPは、上海市では34,547元であるが、貴州省はこの約13分の1である。また、2001年に、農村部の一人あたり収入は、都市部の約3分の1である。この問題解消のため、2000年からの西部大開発計画により、中西部地域への投資が重点的に行われている。
X 市場経済移行諸国
1 ロシア経済
(1) 市場経済移行後のロシア経済
91年末に、ソ連は崩壊し、ロシアは市場経済化路線をとった。しかし、90年代のロシア経済は、この路線が成功したとはいえない。90年代の実質GDP成長率は、平均で−5.0%であり、消費者物価上昇率も平均で481.1%であった。
移行後、初めてプラス成長になったのは、97年であった。97年は、ロシアの恵まれたエネルギー部門などへの外資の受け入れにより、工業生産が伸び、プラス成長となった。
(2) 98年のロシア金融危機
98年に、金融危機が発生し、実質GDP成長率は再びマイナスとなり、−4.6%となった。当時、ロシアの高利の短期国債に外資が流入していたが、アジア通貨危機を契機に、外資がロシアの構造問題に懐疑的となり流出した。株価は急落し、短期国債の利回りは急上昇し、金融危機が発生した。ルーブルの売り圧力は強く、98年9月に固定相場制から変動相場制へ移行した。
ロシアの構造問題
a.資本の国外流出が進み、犯罪などの地下経済が拡大し、徴税率は低く、歳出の削減が進まず、構造的財政赤字であった。この財政赤字を高利の短期国債の大量発行で賄っていた。
b.石油、天然ガスなどの一次産品に依存した貿易・経済構造である。
(3) 99〜2003年のロシア経済
99年は、実質GDP成長率が5.4%と、市場経済移行後最大の成長率となった。これは、為替レートの大幅な減価により輸入代替による生産が増加したことや、国際価格が上昇した原油、天然ガスなどの輸出や生産の伸びが大きかったためである。2000年も、生産の高い伸びは続き、前年より高い9.0%成長であった。2001年も、ルーブル切り下げによる国際競争力の上昇や、原油・天然ガスなどの国際価格上昇を背景に、5.0%の成長となった。
2002年は、同様の要因により、4.3%の高成長であった。ただ、固定投資が、前年までの2桁の伸び率から、前年比2.9%へと大きく鈍化したため、成長率は鈍化した。2003年も、引き続き、4%台前半の成長が見込まれている。
2 中・東欧経済
1990年に、中・東欧では、経済の自由化、市場経済への経済改革が行われた。91年に、各国で価格の自由化がほぼ完了した。 中・東欧経済は、90年代初めのマイナス成長から着実に回復し、堅調な成長を遂げている国が多い。これは、海外からの直接投資受け入れ、輸出の増加、サービス部門の拡大などが主な要因である。
ポーランド、ハンガリーなど中・東欧主要7カ国の実質GDP成長率は、2000年、2001年と3.5%の堅調な成長であった。主な要因は、好調なEU経済や通貨安により輸出が好調であることである。輸出先は、90年代前半がロシアや中・東欧向けが多かったが、最近はEU向けが増加し、中心となっている。
堅調な成長の大きな要因である中・東欧向け直接投資は、2001年は世界景気の後退により減少したが、2002年は、過去最高であった2000年と並ぶ水準である。ドイツを中心にEUからの投資が主であり、アメリカからの投資比率も高い。
さて、堅調な成長の中・東欧の10カ国は、昨年末、2004年にEUへ正式加盟することが決まった。これにより、域内総生産が、8兆2千億ドル(2000年)になり、アメリカのGDPの9兆9千億ドルに迫る経済圏が形成されることになった。
注:EU加盟予定の10カ国は次のとおりである。
ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、マルタ、エストニア、ラトビア、リトアニア、キプロス