1967年4月3日号の「日本と中国」の第2面では、赤旗紙の主張に反論しています。原本は国会図書館の所蔵です。
2000年9月16日 猛獣文士


1967年4月3日号第2面

赤旗のデマ宣伝を解剖する

 日共反中国指導部は善隣学生会館襲撃という未曾有の不祥事をひきおこしておきながら、反省の色すらみせず、かえって機関紙「赤旗」やその盲従紙である「民青新聞」「日中友好新聞」などを使って、ウソ八百をかきたてている。「赤旗」などのウソは日一日と極端になってきており、まさに白を黒といいくるめるデマ宣伝紙と化している。“日本と中国”は事件以来これまで、もっぱら真相を広はんな人びとに伝えることに全力をそそぎ、「赤旗」などのデマ宣伝を無視してきた。しかし、とくに最近の「赤旗」などは、加害者と被害者を転倒させ「丸二日間にわたって監禁され」「トイレにもいけず、婦人はバケツで用をたした」という状況をネツ造し、「人道上の問題」にすりかえ、「正当防衛権」を行使し「華僑青年ら暴徒」を排除した、という論法で、あのファシストばりのテロ行為を正当化しようとしている。ウソもここまでくると重大な犯罪である。そこで本紙は「赤旗」などのウソのいくつかをとりあげ解剖してみた。

目 次
第1のウソ  華僑青年らが襲撃
第2のウソ  「丸二日間監禁された」
第3のウソ  弁当の差入れ
第4のウソ  かりだされた三百数十人
第5のウソ  強盗の論理
日中旅行社  関西営業所を閉鎖
閉鎖にあたってのお詫びとご挨拶
日共が系統的に策謀
赤旗デマスクラップ

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第1のウソ  華僑青年らが襲撃

 上の写真は、三月二日午後四時すぎ、善隣学生会館一階廊下で撮影されたもの。この写真はどんなにくわしい説明より説得力のある現場写真として有名になった。加害者と被害者が一目瞭然である。

 ところが、この写真の掲載された宣伝物をみた人たちが日共党員に弁明を求めたところ、彼らの答えは「このヘルメットをかぶり棍棒で素手の青年たちを殴りつけている狂暴な顔をした男たちが中国人学生と「脱走分子」だ。殴られている青年のほうが日中と民主団体の支援員たちだ」とか「これは悪質かつ巧妙な合成写真だ」とかもうメチャメチャな弁解をしている。

 「赤旗」もはじめのうちは「華僑学生らに襲撃され、棍棒や角材で殴打されて、多数の重傷者をだした」の一点張りで「被害者」をよそおい、この武装暴力団については頬カブリをきめこんでいた。しかし、彼らにとってはきわめて具合の悪い、この写真が大量宣伝され、「被害者」ヅラができなくなってくると「ヘルメットはもともと防衛用具である」とふてくされはじめた。この写真のヘルメットをかぶり棍棒や角材で、素手の青年を殴りつけている側が、彼ら「日中と民主団体の支援員」であることを認めてしまった。しかしヘルメットの男たちが手にしている棍棒やクギをうちつけた角材、竹ざおまで「防衛用具」というキベンをろうするわけにはいかず「この棍棒や角材の凶器は華僑青年ら暴徒からうばいとったものだ」といっている。

 つまり、「防衛用具」であるヘルメットをかぶった男たちは、棍棒やクギをうちつけた角材などで襲撃してきた「華僑青年ら暴徒」から、素手で凶器をのこらずうばいとり「正当防衛権」を行使して殴りつけたスーパーマンというわけだ。そんな子どもダマシな説明が良識ある人びとにとおるはずがない。

 ヘルメットをかぶり凶器をふるって暴行をくわえている側が「被害者」で、素手で殴られている側が「加害者」だ、という苦しいコジツケは、いくら真実をねじまげるにしてもあまりにもグレツである。

 「日中友好」の看板をかかげた部屋から、凶器をふるってとびだしてきて、「友好」の相手国の人民である素手の青年たちを殴打し瀕死の重傷をおわせた「日中友好協会と民主団体の支援員」の罪は重大である。しかしそれ以上に重大な犯罪をおかしているものは「赤旗」をつかって白を黒といいくるめ「加害者」を「被害者」に仕立てあげようとしている連中である。その連中――日共中央指導部こそ、このテロ行為の主謀者であり、内野竹千代、岩間正男、青柳盛男、松本善明ら中央幹部が事件当日督戦につとめていた事実(“日本と中国”緊急特報第一報に証拠写真掲載ずみ)でも明白である。

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第2のウソ  「丸二日間監禁された」

 左の写真は、いずれも三月一日夜、うつしたもの。場所は善隣学生会館のニセ「日中友好協会」事務所のすぐ脇にある入口。この入口は地下(食堂、理髪店、便所などがある)から一階のニセ「日中」事務所の裏口に通じている近道である。ニセ「日中」事務所に出入するには正面玄関をまわるより、ずっと近く、もっぱら利用されている通路だ。

 赤旗の報道や主張、論文などで、くりかえし宣伝されているところによると、「二月二十八日夜から丸二日間にわたって日中友好協会事務局員らは監禁され、このため事務局員らは便所にもいけず、婦人はバケツで用をたした」そうだ。といことはこの一日夜は監禁のまっさい中である。ところが写真(上)には「監禁」されて「便所にもいけない」はずの金田英門(日共党員)と柳瀬宣久(日共党員・事務局細胞キャップ)がのんびりと姿をみせている。写真(中)は、金田や柳瀬たちの出迎えをうけて「支援」にやってきた札つきの反中国行動隊「亜細亜通信社労組」の男女が入っていくところ。写真(下)にもみられるように、彼らは一日夜、この通路から自由にニセ「日中」事務所に出入りしていた。

 彼らは内部にバリケードをきずき、自分で自分を「監禁」していた。この「監禁」は内部から「自主的」に行っているものであるから自分たちの「仲間」の出入は自由にできるわけ。

 さて、この奇妙な「丸二日間の監禁」で「便所にもいかれなかった」というウソについて。彼らは便所にいく気ならいつでもいけた。彼らが自由に出入している地下にはちゃんと便所がある。距離的には一階の便所よりずっと近い。一階の便所にしてもかれらが勝手に使わなかっただけである。入口内側にバリケードをきずき自分で自分を勝手に「監禁」していた彼らが「便所にもいけず」とはあきれた論法である。

 「便所にもいけずバケツで用をたした」と「赤旗」や「日中友好新聞」などに「手記」をだし、ウソでぬりかためた「報告会」や「集会」で同じことを得意になってふれまわっている「悲劇のヒロイン」西村郁子こそ恥知らずな道化役者である。

 (西村は日共党員で事務局細胞のひとりとして、友好協会分裂以前から妨害活動を行っていた札つきの反中国分子)西村がみずからPRするように実さいに「バケツで用をたした」かどうかは知らない。しかし、そうしなければならない条件は全くなかったのだから、もしそうしたとしたら、それはあくまで「自主的」な行為であり、本人の「好み」の問題だとしかいいようがない。

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第3のウソ  弁当の差入れ

 三月二日午後一時ごろ、ダンボール数個をかついだ男たちを先頭に、善隣学生会館を包囲していた日共党員や民青の反中国分子たちが正面玄関に「弁当の差入れ」と称して押入ろうとした。(左上写真)そのとき、しめし合わせたように、ニセ「日中」のドアが開き、中にいた七、八十人の反中国分子の一部が出てきて正面玄関内フロア付近で「弁当くわせろ!」と叫びはじめた(左中写真=台の上に立っている男が二月二十八日夜、酔っぱらって中国人学生たちの壁新聞を破りこれに抗議した彭君を殴りこの事件の発端をつくった張本人村上糾)。

 これに対して、会館理事者側は「前夜と同じように、会館事務局が差入れの品物を責任をもって「日中」の側にわたすから」と申し出た。(前夜はこの方法ですべての差入れ物は受け渡しされていた)ところが、こんどは「どうしても直接渡す」といってきき入れない。そして、外と内からハサミ打ちするように押しはじめたのだ。玄関にいた警官はこの様子をながめているだけだった。フロアにいた中国人学生と日中正統会員たちはスクラムをくみがんばりぬいた。すると内部に反中国分子たちは新手をくりだし、消火器を使って目つぶしをくわせ、スクラムがくずれたところを棍棒、竹ざおをもったグループをくりだして暴行を加え、劉道昌君など十数人の中国人学生、日中正統会員などに重軽傷をおわせた。中国人学生側はこれにひるまず、暴徒をニセ「日中」事務所の中に押しかえし、再襲撃を防ぐためにこのときはじめて、外側から椅子でドアをふさいだ。一方、正面玄関の襲撃も固いスクラムで押しかえし、いそいでバリケードをきずいた。写真もしめすようにこのときまで「バリケードをきずいて「日中」事務局員を丸二日間「監禁」したという「赤旗」報道のような「事実」はなかったのである。

 なお彼等が前夜の方法を拒否してどうしても直接持ち込もうとした「弁当」の中味はヘルメットなどの武装用具だった。(左下写真)

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第4のウソ  かりだされた三百数十人

 二十五日日本青年館で“日共反中国暴力団による中国人学生襲撃事件を糾弾し、日中関係断絶の陰謀を粉砕する中央決起集会”をひらいた。この集会には東京および近県の日中友好をねがう貿易界、文化界、青年、婦人など各界各層の人びと約千人と各地方の代表者数十人が参加し、デモ行進をおこなった。

 ところが二十六日付「赤旗」はこの集会が「利権にからんでかり出された貿易商社員、脱走分子、札つきのトロツキスト」によってひらかれ「三百数十人がデモをおこない」「通行人に事件の真相を全く逆に宣伝するデマ文書「日本と中国」などを配布した」と書きたてている。左写真をみれば「三百数十人」かどうか一目でわかる。もちろんこの行進の列は長いとはいえないが真実が広く伝われば伝わるほど自発的に闘いの戦列に加わる人びとでどんどん長くなることだろう。

 なお同じ日に日共反中国指導部は日中友好協会襲撃事件の真相をきき日本の民主運動の発展をかちとる青年学生集会」なるものを東京・文京区の礫川公園でひらいたが、僅かニ百人(「赤旗」は四百五十人と称しているが)が集まっただけ。あわてた日共反中国指導部は午後六時からひらいた「日中友好協会を守る全都集会」に懸命な動員をかけ、デモをおこなった。このデモの参加人員は六百人前後。「赤旗」報道はなんと二千二百人という水ましぶり。「票」や「数」の好きな日共が「数」で苦しんだというのも皮肉な話。

 東京で「数万」を誇る党員や民青同盟ですら数%しか動員できないという事実は“反中国”行動のむなしさを示す一例ともいえよう。

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第5のウソ  強盗の論理

 「赤旗」が日共反中国暴力団のテロ行為を正当化するためにさかんにかきたてているのが「襲撃したのは華僑学生ら」でその「動かせない証拠」は「衝突事件がおこったのは、日中友好協会本部のある一階で、華僑学生のいる三、四階ではない」ことだという説明。三月二十六日の「主張」ではこの「一階でおこった」という「証拠」を理由に「華僑学生などに負傷者が出たということで日中友好協会側を『加害者』よばわりするのは、他人の家に入りこんだ強盗が被害者におそいかかり、傷害、器物破損をはたらき、自分もあばれまわって盲動した結果、負傷したからといって、被害者を『加害者』だといいはる…“強盗の論理”だ」とうそぶいている。

 この彼らの論法をそのままつかって、事件のおこった「場所」をみなおすと、その「場所」は「一階廊下」であり「日中友好協会本部」の中ではないことは彼らも認めているとおりである。それをあたかも「他人の家に入りこんだ」かのように「主張」し、被害者と加害者をてんとうさせようというのはムシがよすぎる。

 重要なのは事件のおこった場所が何階であるかということではない。この暴力行為が善隣学生会館のなかでおこなわれたということである。善隣学生会館はただの貸ビルではない。この会館は戦前、「満州国」が留学生のための学生寮として建てたもので、戦後、外務省に移管され、さらに、ここに住んでいる中国の人たちや日中友好をねがい、すすめる人たちの努力によって、六年前に、はっきりと、日中友好をすすめるための建物として財団法人善隣学生会館が運営にあたることになったのである。日中友好協会も一九六三年にここに事務所をうつした。また日中両国人民の友好の建物として倉石中国語講習会、日中学院などを加え、日本と中国の相互理解をふかめる日中友好のセンターになっていった。ところが日共中央指導部が反中国路線を歩みはじめ、昨年十月、真に日中友好をすすめる人びとが、日共反中国分子と訣別し正統本部に結集すると、盲従分子たちは、ここに居座ってニセ日中を根城に、反中国活動に明け暮れるようになったのだ。日中友好のために使うというこの会館の目的は彼らによって大きくふみにじられている。

 つまり、ニセ「日中」はこの会館に居座る資格がないばかりか、会館の目的とは正反対の日中友好を破カイしようとする日共の反中国出先機関と化しているわけだ。会館の目的が「一階」だけに適用されない理由などまったくない。この会館に住む中国人学生がニセ「日中」に出ていくよう壁新聞を通して要求するのは当然のことといえる。この要求に対して、暴力テロで答えた彼らの行為はまさに“強盗”であり、「日中友好」の旗をかかげて、友好の建物の中で、中国人を凶器で殴打し、重傷をおわせておいて「正当防衛」だと主張するのは文字通り「強盗の論理」だ。

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日中旅行社  関西営業所を閉鎖
反中国分子の妨害活動が原因

 三月二十六日、日中旅行社関西営業所は閉鎖した。

 同営業所閉鎖の直接の原因、経過について日中旅行社に問い合わせてみた。

   ×                    ×

 日中旅行社の関西営業所は、一昨年六月に開設され、大阪をはじめ関西各方面のご支援により、逐次発展をとげてきましたが、まだ独立採算の状態にたち至ることはできませんでした。ただ“出城を築いたら三年は兵糧を送れ”という言葉どおり、本社の責任において関西営業所を支援し、その成長発展をはかって参りました。

 ご承知のとうり、日中両国間には、まだ国交が回復していないのにもかかわらず、両国間の往来、経済、文化の交流ができるのは、友好の精神を基礎としているからに他なりません。

 そして現在の特徴において、この友好の精神を具体的にあらわしているのは、、政経不可分の原則、ならびに日中・中日友好協会の共同声明であることは申すまでもありません。

 したがって当社では、本社においても関西営業所においても、これを全従業員に徹底させるため、極力、努力をはらった結果、東京本社においては、この点について全員一致し、こぞって日中間の交流、往来の発展に奉仕することが可能となりました。

 ところが関西営業所では、関西在住の取締役ならびに営業所長の並々ならぬ努力にもかかわらず、吉村安弘、石田淳子、今井梅乃の三人の従業員はこれを拒み、会社の営業方針に反する団体に所属して、陰険な反中国活動をつづけていました。

 このため、関西の友好商社間では、当社関西営業所に対する不信が次第に高まり、広州の春季交易会が間近にせまった去る三月一日、日本国際貿易促進協会関西本部友好商社部会常任理事会での討議決定にもとずき、関西営業所には反中国分子がいるという理由で今回の交易会にあたっては、日中旅行社関西営業所を渡航手続取扱業務担当者としての指定からはずす旨の通達がだされましたし、これにもとずいて、当社関西営業所が扱わせていただくことに内定していた、日本国際貿易促進協会関西本部友好代表団などについても渡航斡旋を取りけされるにいたりました。

 これがため当社は莫大な損害をこうむったのみならず、今後、関西営業所の業務について、まったく前途の見通しをもてなくなるにいたりました。

 ここにおいて当社では、石田、吉村、今井の三名の従業員に事態を深勉熟考してもらうため(イ)有給休暇扱いにし(ロ)しばらく自宅で学習し、任務の報告をだすこと、を命じました。

 しかし彼ら三名は、反省の色もなく、外部の日中友好を阻害する者たちと大挙して営業所に押しかけ、事務所を占拠したり、大量のビラを大阪市内はもとより、近県各地に配布し、ことさらに日中関係を妨害してかえりみない態度をとってきました。

 国貿促関西本部は、日中貿易に従事する数百の企業を結集する貿易促進団体であります。その国貿促関西本部から前記のような通達をだされては、当社として、今後関西営業所の前途に、独立採算はおろか、収資の道を絶たれたも同様で、その存続すらまったく無意味となるにいたりました。

 したがって同営業所の閉鎖を実行し、従業員すべてを解任するのやむなきにいたった次第であります。

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閉鎖にあたってのお詫びとご挨拶
日中旅行社大谷会長、菅沼社長

 日中旅行社の大谷会長、菅沼社長はさる三月二十六日、同社関西営業部を閉鎖せざるを得なくなかった事情について、つぎのような挨拶を発表した。

 当社は創立いらい、各方面のご支援のもとに、事業は順調な発展をとげ、創業三年めの今決算期には、株主各位からもおよろこびいただけるだけの業績を、確実に予想できるまでにいたっておりました

 ところが、昨年夏いらい、ご承知のとおり、日本共産党から中国旅行にたいする数々の妨害をうけ、とくに関西営業所では社員のなかに反中国団体に加入している者がいたため、各位の不信を買い、ついにその業務をまったく停止せざるをえない事態に立ちいたりました。

 このため、当社は三月二十六日をもって関西営業所を閉鎖するのやむなきにいたりました。

 各位の格別のご支援のもとに、春季交易会に参加される方々の渡航手続のご依頼が殺到する一方、中国への参観旅行のご希望も多数だされているちょうどその時期に、このような状態に立ちいたりましたことは、社員教育の面においてはなはだ不十分だったことを暴露したものというべく、せっかくご支援くださった各位にたいし、まことに申訳けない次第でございます。

 関西営業所は閉鎖いたしますが、本社は従来どうり正常に営業をおこなっておりますので、この面ではみなさまにいささかもご迷惑をおかけすることはございませんから、なにとぞご安心くださるようお願い申上げます。

 なお、関西方面の業務については、一時的にご迷惑をおかけすることは、まことに残念でございますが、日中友好の事業が発展するかぎり、これまで当社の関西営業所が担当していた役割りは、真に日中友好をねがう勢力にささえられ、いずれは今後なんらかの形で立派に旅行業務が遂行されるようになる日が必ずくるものと確信いたしている次第でございます。

一九六七年三月二十六日
株式会社 日中旅行社
取締役会長 大谷螢潤
取締役社長 菅沼不二男

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日共が系統的に策謀
関西事業所閉鎖にいたるまで
あいついで旅行計画つぶす

 今回の日中旅行社関西営業所閉鎖のかげには、日中間の往来、交流をやっきになって破壊しようとする日共修正主義集団の執念深い反中国策謀が、継続的にはたらいていることは明白である。

 昨年下半期に、当時の日中友好協会、日中旅行社が関係した参観団、視察団で、破壊、取りつぶしにあったものだけでも、つぎのような多数にのぼっている。

 調査によると、日共修正主義集団が、中国行き一般旅行に対しても破壊と妨害を加えだしたのは、やはり昨年六月の第二回日中青年友好代交流を圧殺する方針をきめたころからである。

 (一)中国教育事情視察団参加者十三名の首をしめる。

 昨年、日教組の組合員の有志組織である教育事情研究会(会長河野密衆議院議員)が募集した百三十名の中国教育事情視察団が、外務省から、とどこおりなく旅券を受領し、出発に心をおどらせて準備していた矢先、日共東京都委員会の津金副委員長や、重山労対部長らが無理無礼な横ヤリを入れ、ついに党籍を持つ十三名の先生たちをひきずりおろしてしまった。

 この視察団に加わった先生たちは、いずれも学校で「平和と民主教育」を真面目に守ってきた誠実な人びとであり、日本軍国主義が長年にわたって中国を侵略した責任について人一倍、民族的道義を感じており、人民が主人公になった新中国の教育事情についてつよい関心をいだいている先生たちだった。

 しかし、「教職員の中国旅行は有害」という道理にあわない「党の決定」によって旅行をとりやめなければならなかった人びとは、一人あたり数万円の負担はまぬがれなかったし、教育事情研究会でもこれらの気の毒な人びとに対して、規定をこえて多額の払い戻しをした。日共は双方に対して被害をあたえ、何らの責任をとろうともしなかった。

 また十三名の先生たちは、視察団が帰国するまでの十一日間は、東京にもおれず、八月末まで一時地方に姿をひそめなければならない悲劇を味あわされた。

 日共東京都委員会のムチャクチャな訪中旅行妨害事件は、はやくも一部の商業新聞にスッパ抜かれたため、東京都教育委員会の休暇証明をとりながら、旅行をとりやめた秘匿党員の先生たちは、自然に党籍をもっていることが暴露されるという結果にもなった。

 そして先生たちの家庭に論争がおき、家族の間から日共の理不尽なやり方に対する不信がひろがった。

 (二)日共の反中国政策で、十数の視察団がつぶされた。

 @中国行政視察・国慶節参観、町村長友好視察団。

 A東京三多摩地区連合会の国慶節視察団。

 B北海道経済視察団(小樽市を中心にした各市)

 C第二次東北・北三県友好参観団(岩手、青森、秋田)

 D東北南三県友好参観団(宮城、福島、山形)

 E和歌山県各界友好視察団

 F三重県商工業者視察団

 G三重県陶磁器業友好視察団

 H長野県友好視察団(上田、須坂、長野の各市)

 I囲碁親善の旅(アマチュア棋士が中心)

 J東京商工団体連合会

 K新日本医師会視察団

 L大阪商工団体連合会

 M大阪府保険医視察団

 以上は昨年八月から十月にかけて実施する予定だった計画のものである。

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「赤旗」デマ
スクラップ

 ○…「バケツで用をたした」と宣伝していちやく反中国スターとなった西村郁子が「赤旗(三月十日付)にのせた「手記」は傑作(?)である。「監禁中いちばん困ったのはトイレです。わたしたちはどんなにほしくても水を飲まないようにしてがまんした」と書いてあるかと思うと「わたしたちはお茶をのんで落ちついていました」とも書いてある。「水」を飲むとトイレにいきたくなるが「お茶」ならいいというわけか。「水」は水分でも「お茶」はちがうという新学説(?)。

 ○…新学説といえばもうひとつある。「赤旗(十九日付)」によると「十八日夜、事務局員の西村さんと柳瀬さんは華僑学生に取りかこまれ、殴られたり突かれたりして柳瀬氏は全治一週間の重傷をおった」そうだ。「全治一週間」が「重傷」なら、「全治一ヵ月」は「死亡」というわけか。もっとも当の柳瀬は翌日にはニセ「日中」事務所に姿をあらわしていたから「全治一日間の重傷」というべきか。

 ○…彼らは一一〇番がお好きである。一日夜、内側からバリケードをきずきながら「監禁されている」と電話した。かけつけた警察も、自分で自分を「監禁」している彼らの事務所入口をみて、首をかしげる始末。その後もなにかというと一一〇番。「赤旗(二十八日付)によると「抗議」のために警察へいったら「あなたたちには感謝されてしかるべきだ」といわれたらしい。なにしろ、一一〇番のお得意さまだから。

 ○…“日本と中国”の大量宣伝に対して「選挙妨害」だとわめく。「選挙妨害」と“犯罪糾弾”をいっしょにして“真実”の声を封じようとしてもそうはいかない。

 

(日本と中国1967年4月3日第2面)

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