1967年の3月10日付け赤旗紙の2面に掲載された「これが人間のすることか」を電子文書化しました。善隣学生会館の事件の関係では、非常に有名で重要な意味をもつこの文献について、私自身、実際に目にするのは、今回赤旗紙の縮刷版が初めてでした。
2000年9月14日 猛獣文士


 二月二十八日の日中友好協会本部襲撃以来、まる二日間事務所内に不法にも監禁されていた婦人のひとり西村郁子さん(三一)――日中友好協会本部事務局員――は本誌のもとめによって、つぎのような手記をよせてきました。

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相手はコン棒丸太をもって

 二月二十八日の午後十一時ごろ、大会で上京された役員の方をお送りして、事務所から三十メートルぐらいのところまできたとき、大内田さんが走ってきて「大変だ!華僑の学生が襲撃してきた」といいました。わたしたちは冗談だと思いましたが、あまり真剣なのでいそいでひきかえしました。

 玄関のところで小山さんが華僑の学生にとりかこまれて押し問答をしていましたが、役員の方がおられるので、とにかく事務所へはいりました。そのときから、二日に女の人だけが救出されるまでまる二日間寝ることもできず、トイレに行くこともできませんでした。二十八日にははげしい襲撃があって、何度も戸を破られそうになり、内側から箱でおさえたりしていましたが、これは当分帰れなくなるなと思いましたが、まだ生命の危険までは感じませんでした。しかし、電話以外には状況もわからず、支援動員がうまくいくかどうか心配でした。相手は百人以上いてコン棒や丸太を持ち出しているのに、こちらは女をふくめたわずかの人数ですから、会員のみなさんの貴重な財産を守りぬけるかどうかが一番心配でした。


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支援の人びとにはげまされ

 一日になって三好一を先頭に脱走分子たちがあらわれたときには、いままでとちがう段階にはいったと思って緊張しました。とくに、電源を切って真っくらにした時には、これが人間のすることかと思いました。石油ストーブも扇風機がとまって消えてしまい、寒くもあり、どうなるかと思いましたが、わたしたちはお茶をのんで落ちついていました。その時はもう覚悟もできて、かえってほがらかな気持ちでした。

 一日の夜、はじめて三十人ぐらいの人がかけつけてくれて、窓の外で歌をうたってはげましてくれました。これが心のささえになったのです。この人たちは、中華書店の陳にけとばされながらがんばっているのが見えました。

 一日の夜に西側のドアが破られた時は、いよいよやられると思いました。かれらは外で竹ざおをふりまわしたり、金属をひききるような音をさせていましたので、ドアごとはずされるのではないかと思いました。あとで聞くと、地下食堂の人もこの音を聞いて、危険な感じをうけたということですから、わたしたちにとってはなおさらだったのは当たり前だと思います。この時、事務局長から救援を求めるよう支持をうけて、窓からさけびましたが、かれらのどなり声でさえぎられて外へとどかず、くやしい思いをしました。


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トイレにもいかせなかった

 二日の朝六時ごろ、女の人だけたすけ出されました。みんながわたしたちの身をきづかって風の中を朝まで戸外でがんばっていてくれたことにほんとうにうれしなみだがでました。

 監禁中いちばん困ったのはトイレを使わせないことです。わたしたちは、どんなにほしくても水を飲まないようにし、食べるものも少なくして何日でもがんばれるように準備していました。女の人もバケツで用をたしましたが、こんな目にあったのははじめてです。

 わたしたちが友好の相手にしていた中国人から、たとえ一部にしても、こんな攻撃をうけるとは考えられませんでした。いっしょに卓球をやったりして知っている人もいるのです。

 大会がいそがしいので四歳のこどもを岡山のいなかにあずけていましたので、心配しているだろうと気がかりでした。こんな襲撃がくりかえされるなかで派迎えに行くこともできません。

 四日に礫川公園からのデモ隊が支援に来てくれた時が一番うれしく、窓から差し入れをしてくれた時には涙が出てしまいました。警官隊が応援の人を妨害してなかに入れなかった時、一番くやしいと思いました。

 会の財産を守るため、弱いけれども力いっぱいたたかったつもりです。

(赤旗1967年3月10日2面)

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