資料(2)
 団結と統一の決議―全国理事会声明

1966年10月26日

 ―九六六年十月二十六日、日中友好協会第四回全国理事会は、東京虎ノ門霞山会館で開かれた。しかし、招集責任者の宮崎世民氏のほか関係者の大部分は、当日姿をみせなかった。これは明らかに任務放棄である。しかし、協会の統―と団結を守るために副会長、常任理事を含めて、四十一都道府県百六十三人の出席者は全員―致で宮崎氏以下の関係者の出席を要求するため、とくに代表を派遣した。宮崎氏は共同声明を無条件に支持しない限り絶対に出席できないといい、大森真―郎氏を代理として派遣すると言明した。その他の関係者も宮崎氏とほぼ同様の趣旨で出席を拒否した。会場に到着した大森氏は「正式の全国理事会では発言できない。きみたちとはもぅいっしょにやっていけない」と発言して退場した。

 このような状況のもとでやむなく理事会は、前日の第十三回常任理事会でひきおこされた協会の歴史はじまって以来、もっとも憂うべき事態について慎重に討議した。

 第十三回常任理事会では、和田常任理事を除く常務会議の構成員は、―般報告についての質問にたいして、議題の中でということでほとんど回答もせず、また前回の常任理事会で継続審議となっていた日中友好協会の「基本性格と交流の基準」については議題にもせず、日中友好協会代表団と中日友好協会代表団とのあいだの共同声明[注・資料(1)]承認の件の議題にはいった。この共同声明は九月二十六日発表された、三十二氏の「内外の危機に際し、ふたたび日中友好の促進を国民に訴える」を基礎としたものであり、それはあきらかに、自主、平等、相互不干渉という友好運動の自明の建前にもとづいて日中友好運動を正しく発展せようとしている人たちを排除し、それらの人たちを攻撃する意図をもったものである。

 多くの常任理事より、これらの点について質問が出され、常務会議構成員はこれに答えなければならない義務をもっているにもかかわらず、―部の人たちは、質問や討議がまだ十分つくされていないうちに、「この共同声明に賛成できない人びととは今後いっしょにやっていけない」とすてぜりふを残し、自ら重大な議事の審議未了のまま、閉会の宣言もせず退場した。そして、直ちに記者会見をおこない、別の組織をつくるうんぬんの発表をさえした。

 日中友好と国交回復実現の一点で、思想、信条、政派をこえて幅広く国民を結集しているわが協会は、その会役員の間に、種々意見のちがいのあることは自明のことであり、われわれは意見の異なる点は保留してねばり強く話しあい、意見の―致したところで行動するといぅ統―の原則のもとで、いままでいろいろな困難な局面を打開してきた。ここ数カ月にわたって発生した協会内部の困難も、この原則に立てばかならず解決できるものである。

 協会の運動方針や規約によれば、当然、日中国交回復、二つの中国反対、日台条約破棄、中国敵視政策反対、相互尊重と自主、平等にもとづく交流などで一致して活動を発展させるべきであるにもかかわらず、友好運動の内部に友好を阻害するものがいるという事実に反する独断に固執して自ら協会から脱走したものである。

 これは明らかに大会で選ばれた役員としての責任を自ら放棄したものであり、十数年の伝統あるわが協会に結集している数万の会員に対する裏切りであり、また中国人民との真の友好を願う多くの日本国民の願望をふみにじるものといわざるを得ない。

 われわれは今後とも十六年にわたる日中友好協会の伝統を守り、思想、信条、政派をこえて団結し得る一切の人びとと団結し、日中友好運動の正しい発展のために努力するものである。

 全国各県連、支部、班に所属する全会員のみなさん。

 日中両国人民の団結がますます必要なこのときわれわれは協会の規約と運動の方針を基礎として統―と団結をかたく守り、日中友好と日中国交回復の旗をかかげて前進しよう。

 いまこそあらゆる困難と障害をのりこえ、会員と国民のカで、名古屋中国経済貿易展覧会の成功をはじめとする日中友好月間活動の勝利をかちとろう。

―九六六年十月二十六日
日本中国友好協会第四回全国理事会

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