1951年、アメリカ占領下の日本が朝鮮戦争の兵站基地となり、日本共産党幹部がレッドパージで合法的活動舞台を失っていた時代に、当時の日本共産党政治局員であった伊藤律は中国に密航し、国外から「自由日本放送」を開局して宣伝工作に当たりました。しかし、北京の日本共産党在外代表部(俗称「北京機関」)で、徳田球一書記長が倒れると、伊藤律は野坂参三によって査問され、1953年9月、戦前から特高警察と結びついたスパイとして日共を除名されました。10月、徳田書記長が死去すると、彼は中国で投獄され、裁判も、刑の言い渡しもなく、党規約にも中国の国内法規にも保護されないまま、27年間を獄中で過ごしました。 中共のこの処置は日共の委託によるものでしたが、その後、日共からの連絡が全くなく、もはやこれ以上拘束することは無意味であると判断した中共が、日共と協議しないまま釈放し、伊藤律が日本に戻ったのは1980年9月のことでした。 その後、日共では、伊藤律を査問して投獄した野坂参三が除名され、伊藤律の回想録の前書きの記述によれば、伊藤律のスパイ嫌疑は冤罪であったということが確認されたということです。 伊藤律が囚人として中国で過ごした27年間には、中国共産党と日本共産党の関係の断絶や、中国における文化大革命の時期がすっぽりおさまっています。伊藤律は、囚人としての過酷な環境下で、日本や中国の共産党の状況を観察しつづけていたようです。彼の回想録のうち、日本共産党が中国共産党と断絶し、中国で文化大革命が進行していった時期の記事を、引用し、掲載します。 |
2001年1月1日 猛獣文士 |
伊藤律 回想録 |
北京幽閉二七年―伊藤律 |
第四章第一節及び第二節 |
第四章 文化大革命の始まり | |||
T その発端と目的 | |||
姚文元論文とその破紋 | |||
日共宮本代表団の訪中 | |||
日中両党の対立と抗争 | |||
第一節脚注 | |||
U 文化大革命の理念と現実 | |||
革命が意図したもの | |||
走資派=劉少奇と搶ャ平 | |||
林彪の極左路線と奪権策動 | |||
第二節脚注 |
姚文元論文とその破紋
一九六五年、「人民日報」に、北京市副市長で民主人士呉ヨ[日偏に含](*2)の新戯曲を痛烈に非難する長文の論評が発表された。筆者は上海の姚文元(*3)。これは異様づくめであった。初めは上海の「文匯報」に発表され、それが「人民日報」に転載されたのだ。さらに異常なのは、その内容である。呉ヨ[日偏に含]の作品は故事にことよせて、毛沢東路線に反対して失脚した彭徳懐元帥(元政治局員)を弁護し、その復活を計る反革命的作品だと強調したのである。彭徳懐は人民解放軍の副総司令官で援朝義勇軍(*4)の総司令官だったが、一九五〇年代後半の大躍進運動をプチブル的熱狂性と批判したため、五九年の党中央の慮山会議(*5)で失脚していた。
即座に「北京日報」に反論が載った。姚文元の論評は曲解だと反論した上、なぜ北京人士への批判を断りもなく突如上海の機関紙で発表したのかと問責した。
すると明らかに党中央の筆で、北京の党委員会と市政府が水も漏らさぬ「独立王国」を作り、中央に対立しているという非難が出た。これで姚文元論文は一文化人の論評ではなく、党中央、特に毛沢東主席の指示によるものであることが判明した。続いて「人民日報」は、北京の文人三名からなる「三家村(*6)」というグループとその「燕山夜話」を反党反革命と指摘した。その一人は「人民日報」の前編集長・ケ拓だった。彼らは党機関の仕事を負担に感じ、本音を語る文章を「北京日報」や「光明日報」に発表していた。それは党性と矛盾するインテリのため息に類するもので、本来とるに足らぬものであったが、呉ヨ[日偏に含]戯曲批判とからみ、槍玉にあげられたのである。
呉ヨ[日偏に含]副市長をかばった北京市党委員会や市当局、とりわけ北京市長・彭真の責任が追及された。彼は重要な政治局員であり、党中央の文化小組の主任でもあったが、その彭真が行方をくらまし、風尚りを避けるかのように清華大学、ついで歴史研究所に立てこもってしまった、と報じられた。そして彭真以下中央文化部長陸定一(*7)、副部長周揚(*8)を含む党中央文化小組も解体されるに至った。中国に重大な変動が起ったのだ。
日共宮本代表団の訪中
プロレタリア文化大革命が開始されたこの時、宮本顕治を団長とする日共代表団が訪中したが、それが日中両党友好関係の終末、激しい対立の始まりとなった。
六〇年代に入り、中ソの対立と論争は日を追って激しくなっていった。ソ共は中共を反ソ反マルクス・レーニン主義、極左冒険主義、国際共産主義の異端者、裏切り者ときめつける。中共はあわせて九編の長論文を発表して、ソ共を現代修正主義と非難し、あげくにソ連を社会帝国主義ときめつけた。毛沢東はフルシチョフの「共産主義論」を「牛肉と馬鈴薯の」共産主義とまで嘲笑した。フルシチョフが、ソ連人は牛肉と馬鈴薯の入ったシチューが食べられる共産主義段階に入った、と公言したからである。
これまで中国の側に立ち、ソ共を現代修正主義と批判してきた日共宮本顕治代表団は北京で、劉少奇、周恩来らと会談、共同声明を用意した。それは反米統一戦線を提起したものであったが、ソ連の「修正主義」批判はなかった。中共の担当者・趙安博は、共同声明の最終決定は、毛主席の決定を待つことになっていると言った。実はすでに中共首脳部内で劉少奇に対する批判が起っていたからである。
宮本顕治は北京を離れる前日、大衆集会で講演を行ったが、その話は次元の低い、共産主義者らしい謙虚さを欠くものであった。野坂参三をはじめ日本の革命戦士がいかに中国人民の解放闘争を支援したかを自讃したが、中国人民がいかに日本人民を支援したかにはふれず、また、日本共産党が自国政府の残虐な中国侵略を阻止できなかった責任と反省を提起しなかった。宮本顕治の話は明らかに民族主義の臭いが強い、プロレタリア国際主義に欠けるものであった。
けれども宮本顕治は話の中で、日本の党もフルシチョフ修正主義の害をこうむっており、これに反対せねばならないと一応"みえ"を切った。
この集会の写真が「人民日報」に載ったのだが、それは友好的などとは言えない異様な雰囲気であった。出席した周恩来は腕を組み、顔面をこわばらせている。宮本顕治は写真班のフラッシュを嫌うのか、ひどいしかめ面。この写真を見て、私は日中両党間の深い亀裂を感じた。その翌日、この亀裂は上海で表面化し、両党の決定的対立となって発展していく。
上海にいた毛沢東は、宮本顕治の前日の北京での講演に基づき、ソ連の現代修正主義反対を共同声明にもることを提案したが、宮本顕治は反米国際統一戦線にはソ連も含まれていると主張し、既にソ連主敵論に立ち、ソ連は米国に妥協しているから反米戦線の一翼たりえないとの見地に立っていた中共と対立した。
結局、日中両党の共同声明は反故(ほご)と化した。このいきさつは当時は公表されず、あとになって、両党の激しい相克の発端だったことが明らかになった。
もともと「人民日報」に出た宮本顕治訪中の記事は、決して意図したのではないが、よい印象をあたえることが少なく、反対に彼が共産党指導者としての品性に欠け、貴族的な気風すらあることを大衆に感じさせるものであった。宮本が病気静養のため、中共の招待で広東省の有名な温泉従化(ツォンホワ)に長期滞在したことが「人民日報」に写真入りで出た。この従化温泉は最高級の保養地で、プールつきの別荘がある。しかも宮本は妻子を同伴し、さらに侍医、看護婦、家政婦、護衛、秘書・上田耕一郎(*9)など総勢一〇人近い人数を連れていった。まさに大名旅行である。
中国の労働者は月平均五〇元(約六〇〇〇円)の収入に耐え、社会主義建設に努力しているのに、これほど賛沢な厄介を平気でかけるとはまさにブルジョア気取りではないか。この記事を見て、獄中の私に警護の公安兵が真顔で質問したものだ。「日本共産党の幹部は欧米式に妻子を同伴して特権的な生活をするのか?」。私はただ赤面するのみであった。
日中両党の対立と抗争
それから日一日と日中両党の亀裂が深まり、対立と抗争が激化するのが獄中の私にもはっきり見てとれた。そしてついに両党の関係は決裂し、駐北京日共代表砂間一良たちも日本に引き揚げるに至った。
中国側は日共中央を宮本修正主義と指弾し、その動揺性、議会主義、平和主義を激しく批判した。表現のゆきすぎはあれ、この批判は基本的には正しいと思われた。後日、王明がソ連に逃亡する事件が起った際、周恩来首相が声明を発表した。その中で、いかなる国のいかなる機関の形をとろうと、中国の情報を集めて他国に売ることを絶対に許さない、と強調した。
その翌日、「人民日報」はまる一ページをさいて、特大見出し「見よ、裏切り者のこの面を」をつけ、日共野坂と宮本の腐敗と非行をあばいたが、その三分の二が、野坂攻撃であった。野坂、宮本の天皇にも比すべき豪華な生活ぶりまで触れていた。野坂が故郷へ墓参に赴く時には、泊るホテルへあらかじめ三食のメニューが指示されるなどといった地方紙の引用もあった。いかにも野坂らしい。彼は飯の食えない人民の生活には関心がなく、自分の長生きのための食べ物に細大の関心をはらい、栄養士を使う。そして「野坂式健康法」などと自讃する。野坂のこの思想を、"命あってのもの種哲学"と「人民日報」はきめつけていたが、たしかに小林多喜二の「われわれの文学は、喰う飯のない人々のための料理の本であってはならない」という名言に反している。この「文学」を「政治」と書き換えればよいのだ。
一方、日共もあげて中共攻撃を展開した。曰く大国主義、曰く干渉主義、曰く武闘主義等々。野坂、宮本、砂間らが自ら先頭に立ち、公然と毛沢東と中共非難に転じた。昨日まで毛沢東選集を大宣伝し、その思想をマルクス、レー二ンに並ぶものと讃美していた日共中央は一転、それを恐るべき唯武闘論と排斥したのだ。
この態度の逆転につれ、西沢隆二、安斉庫治らが中共を支持して党を離れた。同時に日中友好協会などの大衆団体にも混乱と分裂が起った。そして学園闘争ともからんで、武装闘争が発生した。それは毛沢東の名言「銃口から政権が出てくる」の直輸入であった。中国革命の主要形態は戦争であった。その歴史的な条件下ではこれは確かに名言であり、人民革命の偉大な勝利が証明した。だが、ブルジョア民主主義が存在し、高度に発達した資本主義国日本ではそのまま適用はできないはずだ。ところが一時文革の主導権を握った林彪が「権力がすべて」という極左路線を強調したため、日本の親中派が武闘に走ったのだ。
「人民日報」にも、毎日のように日本の青年が警察機動隊とわたり合う写真が載った。その鋭気と勇気に感心しながら、他面どこまでやれるだろうかと心底不安になった。 中国を訪れて、文化大革命支持を表明する日本の革命人士の中にも余り信用できない人がいた。いわば野次馬である。北京にいた西園寺公一(*10)が「中共が知識人の引き締めを始めた。えらいことをやり始めたものだ」と日本語版の「人民中国」誌に書いたのもこの頃のことだ。
ともあれひとつの根本事実が明らかになった。宮本路線は毛沢東思想とは相容れない、この一事である。宮本路線の思想は、革命形態の相違とは無関係に、本能的に毛沢東思想を恐れ、嫌悪しているのだ。
*1 「視力低下のため資料文献を調べるのが困難になったため、以下の文章では日時について正確を期しがたいことをあらかじめおことわり致します」という著者の「おことわり」が付されていた。
*2 (一九〇九〜一九六九)清華大学で歴史学を専攻し教授となる。北京市副市長。史劇「海瑞罷官」は無芸の罪で投獄された者の釈放運動に題材し、中共の政策を批判したもの。姚文元の批判によって「反党、反社会主義分子」として失脚した。
*3 (一九三一〜 )文匯報の記者。六五年「新編歴史劇"海瑞罷官"を評す」を発表して文化大革命の旗手となり注目を集める。「三家村を評す」「陶鋳の二冊の本を評す」など次々に発表。のち政治局員。八一年、懲役二〇年の判決をうける。
*5 五九年八月の中共八期八中全会を指す。以後、人民解放軍は新任国防部長・林彪が指導することになり、「毛沢東思想」による軍内のイデオロギー強化がすすめられた。
*6 当時北京市党委員会のイデオローグであったケ拓、呉ヨ[日偏に含]、廖沫沙らのこと。
*7 (一九〇七〜 )米国、ソ連に留学し二四年中共に入党、三一年共産主義青年団書記長となる。中共十全大会で中央委員、中共中央の宣伝部長となり、「百花斉放、百家事鳴」政策を提唱した文化戦線の最高責任者。周揚の失脚に伴って解任された。
*8 (一九〇八〜 )上海の大華大学から日本に留学。上海作家同盟書記。魯迅、巴金らと論戦し対立した。延安大学校長。四九年以降は中央宣伝部副部長。毛沢東の「延安文芸講話」の祖述者ともいわれている。四人組に徹底的に追及迫害された。
*9 (一九二七〜 )父はアナキスト系統の教育評論家、五一年東大卒。四六年日共入党、六全協のあと「戦後革命論争史」を出版。六六年中央委員、七〇年幹部会委員、「赤旗」編集局長。七六年副委員長。七三年党大会で民主連合政府綱領を報告した。
*10 (一九〇六〜一九九三)三〇年オックスフォード大学卒。外務省嘱託となり、近衛内閣のプレーンの一人となり、ゾルゲ事件に連座して逮捕される。五八年日共に入党、中国に渡り七〇年までの一二年間日中友好の架け橋となったが、六七年日共を除名。
革命が意図したもの
プロレタリア文化大革命は中共中央、つまり毛沢東主席自身が発動したものであったことがやがて明白になったが、その目的は何か? 毛沢東の相次ぐ発言、党中央委員会総会の決定、毎日「人民日報」に発表される論説などがその意義と意図を反復説明している。それによれば、その意図する目的は、以下の如くであった。
<この文化大革命はイデオロギー上におけるプロレタリア社会主義革命をめざす。社会的存在が社会意識を決定する。生産関係と社会制度が社会主義に変れば人間の思想意識も社会主義となる>
原則はまさにその通りだが、前者が変ったからといって、すべての人の意識が即座に社会主義思想に一変するわけにはいかない。旧思想は長い年月存在する。しかも地球上に帝国主義、資本主義がなお存在する限り、その思想の影響により社会主義制度をその内部から崩壊させようと企てるし、その意図がない場合にもプルジョア思想が流れ込み、汚染する。
その結果、党及び政府の内部から資本主義復辞が発生する危険がある。現代修正主義がすなわちそれである。当時中共はこの復辞がユーゴに始まり、ソ連にも起ったと強調した。この内部から資本主義復辞を企てる現代修正主義の危険を防止するためにも文化大革命が提起されたわけである。ナチス・ドイツのあの猛烈な侵攻もソ連人民を屈服させ得ず、逆に東欧諸国の解放と革命の勝利に終ったが、城砦はその内部から奪取されやすい。今やユーゴをはじめソ連、東欧諸国では修正主義により内部から資本主義が復辞しつつある、と中共は指摘したわけである。
この事態にかんがみ、イデオロギー上のプロレタリア社会主義革命を大衆的に展開するというのが、中共の主張であった。たしかにレー二ンもその晩年には「共産主義的人間を育成せずしては、社会主義、共産主義建設は不可能」だと指摘した。
当然、文化大革命は、資本主義の道か、社会主義の道かという路線闘争として開始された。これは誰にもわかり、しかも切実な根本間題である。だからこそ幾千万大衆がこの革命に立ち上がり、烈火が全中国に燃えあがったのだ。あらゆる指導者、幹部、党員、そして大衆の路線、政策、思想、風習が改めて問われるに至った。全人民的な相互批判、自己批判、思想改造の嵐であった。中国は一〇億の人口を抱き、古い歴史文化に富み、しかも長年帝国主義の侵略と封建制度に苦しんで来た農業国である。人民革命に勝利したとはいえ、封建的及びブルジョア的遺物が大衆の思想習慣の中に根強く残っていた。それらいっさいの旧遺物を摘発し一掃する大闘争が全国で展開された。甚だしくは「天安門」の名称すら、旧時代の遺物だから改名すべしという意見が紅衛兵たちによって主張されたし、孔子の儒学も一時は完全に否定されてしまった。こうした熱狂性が高まるにつれ、歴史の遺産いっさいが反革命として葬り去られ、有名な歴史的建造物までが破壊され始めた。
この大革命の鉾先は当然、党及び政府の"暗黒面"にも鋭く向けられた。これは毛沢東自身が提起したものであった。党と政府の上層部には、従来から路線上、思想上、政策上、ブルジョア的なものが存在しており、問題が起るたびに是正してきたものの、根本的に解決できなかった。そこでこの文化大革命により全大衆を動員し、これらの"暗黒面"を徹底的に一掃して資本主義復辞の危険を断つと共に、社会主義革命をさらに高い次元へと飛躍させる――これが毛沢東の理念であった。
中共はこのプロレタリア文化大革命を、世界革命と共産主義運動の歴史上、画期的で新次元の創造的革命と位置づけた。紅衛兵が北京は世界革命の中心だと叫んだのももっともだった。
走資派=劉少奇と搶ャ平
文化大革命が発動された当初、「資本主義の道を歩む実権派」が闘争の目標とされた。初めは名指しされなかったが、紅衛兵運動が開始されるや、劉少奇がそのゆきすぎをたしなめたのに対し、毛沢東は逆に大いに激励した。また期を同じくして、搶ャ平の「白描黒猫論(*1)」批判が「人民日報」に載った。つまり二人の走資実権派とは党副主席兼国家主席・劉少奇と党総書記・搶ャ平だということになったのである。
やがて開かれた党中央委員会全会の翌日、それは公然化した。文化大革命を歓呼する北京市民大衆の前を、党首脳陣が国産の新型ジープで疾駆する大きな写真が「人民日報」に載ったのだが、先頭の車に毛沢東と林彪が並立しているのに対して、劉少奇は七番目の車で、しかも彼の表情はこわばっていた。
次いで発表された中央委員会全会の決定ですべてが明白となった。実はこの全会開会直前、毛沢東は「私の大宇報」と題する壁新聞を張り出したが、その標題は「司令部に砲弾を打ち込め」であり、劉少奇、ケ小平の日和見路線を指摘していたのだ。彼らは持続的な革命、階級闘争に反対し、ことに文化、思想の面で封建的あるいはプルジョア的なものが残存していることを擁護し、資本主義復辞の諸傾向の元凶だと指弾された。さらに陸定一を部長、周揚を副部長とする文化部は"伏魔殿"であるとまで非難された。封建的な思想、文化を宣伝、温存しているといぅのである。そして党中央が延安にあった時代に上海で文化活動を指導していた夏衍(*2)、周揚ら「四人男」が、毛沢東文化路線を守る魯迅を排除したという理由で、また著名作家田漢(*3)をはじめ多くの文化人が槍玉にあげられた。
何よりも党首脳部に起きた変化は衝撃的であった。党副主席はこれまで劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲、林彪の五人だった。林彪は五九年に彭徳懐が失脚した際、代って国防部長に就任し、同時に党副主席に昇格したが、この中央委員会全会で党副主席は林彪ただひとりと決定された。周恩来、朱徳は政治局常任委員となった。以前は毛主席と搶ャ平総書記に、前記五人の党副主席を加えた七人が党首脳とされ、肖像画も常に七人一緒に掲げられていた。だが、ここに至って毛沢東と林彪だけになり、劉少奇、搶ャ平は失脚した。
その後に開かれた党大会で劉少奇の永久除名と共に、林彪を毛沢東の後継者とする党規約改正が行われた。同時に政治局も陸海空軍首脳によって占められた。彭真も失脚、中央文化小組も解体され、林彪側近の陳伯達(*4)が主任、江青(*5)女史が第一副組長、そして張春橋(*6)らをメンパーとする文化革命小組が新たに組織された。本格的な文化大革命が開始されたのである。
もとよりその過程は複雑であり、種々の混乱を惹起した。軍隊が学校、行政機関、企業に乗り込み、文化大革命の支援に当り始めた時、周恩来首相はこれを制止して、軍隊は地域の問題に介入すべきではないと声明した。ところがその直後、毛沢東承認の形で、林彪が「歴史的大革命は人民軍隊の第一任務でもある」と言明した。かくて林彪摩下の軍隊は至る所に入り込み、文化大革命の"主役"となった。同時に労働者で組織された毛沢東思想宣伝隊が学校や研究機関に入り、指導権を握った。
その旗印は毛沢東思想であった。誰もが赤い表紙の「毛主席語録」を持ち、そこに載っている記述が「最高指示」であるとするにいたったのである。
劉少奇とケ小平はいったいどのような罪過を間われたのか? 「人民日報」は毎日この 「資本主義の道を歩む実権派」を帝国主義の手先、犬の穴から這い出た裏切り者、資本主義復辞の元凶などと非難し、人民と革命の敵と罵倒した。
これには私は初め当惑した。一九五二年夏の半日、中南海で会った劉少奇は質朴で試練に鍛えられた革命家らしい人なつかしさと剛毅さを兼備していた。その謙虚で明確な話し方は忘れがたい印象を残した。この実感は否定できない。かといって中共中央機関紙を疑うわけにもいかない。この矛盾に挟まれながら注意深く「人民日報」を読んでいった。
多くの非難が彼に浴びせられたが、劉少奇の罪過は要するに三点に絞られる。第一は、二〇代の青年時代に逮捕された際、日本流にいえば「転向」を表明して釈放され、のちソ連に留学した罪。だが、その後の半世紀にわたる革命活動が実践的にその誤りを克服して余りあるのではないかと私は心中同情した。
第二は「天津講話」である。これは初め毛沢東路線とは若干のちがいを示した発言であった。人民革命勝利後間もなく、天津の民族資本家たちの前で、「今の中国にあっては資本主義は余計なものではない。少なすぎる。搾取を伴う資本主義の発展をへて、社会主義に到達しうる」と語ったのだが、一九五六年の中共第八回大会で彼が行った中央委員会報告も同様で、大々的に批判されるにいたった。つまり、中国の当面する主要矛盾は"おくれた生産力と進んだ社会制度の間の矛盾だ"と規定したのだ。これは明らかに毛沢東の持続的革命論、階級矛盾論に反する。この相違は農業協同化を時期尚とした点にも見られたが、結局彼は毛沢東路線に服従したはずだし、商工業社会主義化にも同意している。
第三は、著名な「共産党員の修養について」が"黒書"だという指摘である。この書が孔子をたたえたり、何よりもプロレタリア独裁という問題を避けて語らないのは反革命だとして非難された。のちに林彪が孔子の言を座右の銘としていたため、いっそう孔子と儒学は批判の対象となった。その他にも文革直前に国家元首としてインドネシアを訪問した際、同国の対外政策を考慮して、アメリカ帝国主義に言及しなかったということも問題となった。
こうして反毛沢東、反革命人脈を形成して、資本主義復辞を企てたと、いうのである。私は徳田がかつて劉少奇の家庭に食事に招かれた時の印象を語ったのを思い出した。「少奇さんは申し分ないが、夫人が民族資本家の娘とかで、はでで出すぎる感じがした。夫人が傍にいると少奇さんとよく話もできない」と。
だが、これらの誤りがその通り事実であるとしても、自己批判して改めればそれでよいのではないか? なぜ敵対矛盾であると攻撃するのか? プロレタリア文化大革命は、本来一種の思想革命である。自己批判と相互批判を通じてプルジョア思想を一掃し、プロレタリア思想の陣地を確固たるものにするにある。"病気をなおして人を救う"思想革命である。まず路線闘争を展開して万人の自覚と思想を高め、共産主義思想の高次元で団結を闘いとるのが大目的であるはずだ。強制処置が必要なのは、批判と改造をどうしても受け入れない者に対してのみではないかと思われた。
あとで知ったが劉少奇は地方の獄に入れられ、仮名のまま死んでしまった。亡くなる時「骨灰は祖国の大海に流してほしい」と遺言したそうだが、この話を聞いた時、私は彼の心中を思い、身につまされて慟哭せずにはいられなかった。
ケ小平の場合は劉少奇の悲劇はさけられた。彼は誤りを反省したのち、復活する機会を得たのだ。ケ小平の問題は要するに「白描黒猫論」であった。彼はかつてこう公言した。「猫は白でも黒でもネズミをとれば良い猫だ。やり方はどうでも生産が上がれば良い方法だ」。当時毛沢東はこの発言を批判して、社会主義と資本主義の根本的な区別を忘れたものと指摘したが、文化大革命が始まるや、この「白描黒猫論」が大問題となった。劉少奇とともに搶ャ平も唯生産力論者と非難された。つまり生産力が発展すれば必然的に社会主義に到達するというわけだが、それなら世界一生産力の発展したアメリカは何故今なお資本主義国なのか、という反問まで出た。
搶ャ平は批判を受け入れて反省を表明、資本主義の道を歩む実権派であったと認め、誤りを償うため、どんな小さな仕事でもあたえてほしいと願い出た。毛沢東は彼の自己批判を受け入れ、党中央委貝と国務院副総理の職務を復活した。そしてケ小平は国連大会に中国首席代表として出席、毛沢東の「三つの世界論」を演説したりしたが、周恩来首相が他界すると、いわゆる天安門事件が起り、その元凶とされて彼は再び失脚した。後日それは四人組の陰謀と判明したが。
毛沢東死去後紆余曲折をへて、亡き劉少奇の名誉も回復され、やがて搶ャ平が党の実質上の最高指導者として全権を掌握した。そして「四つの現代化(*7)」という新路線に転換したが、その是非は別として、今も「白猫黒猫論」は決着がつけられていない。それを誤りとする自己批判は正しかったのか? それとも「白猫黒猫論」は正しかったのか? 少なくども今の中国の近代化路線は形の上で実権者搶ャ平のかつての「白猫黒猫論」の道を辿っているのだから、この点が問題となる所以である。
林彪の極左路線と奪権策動
毛沢東の「親密な戦友」としての林彪の出現は、誠に瞠目すべき華やかさであった。だが、林彪の毛沢東礼讃には頭をかしげさせられた。例えば「毛主席は二千年に一度しか現われない稀有の天才である。毛主席の指示通りに万事をやれば間違いなし」とたたえたが、これはおかしい、観念的すぎないかと疑った。毛沢東は確かに抜群の才能をそなえてはいたが、その思想と路線は中国人民革命闘争が生み育てたものである。端的に言えば、毛沢東が中国人民革命を生んだのではなく、中国人民革命闘争が毛沢東を生んだのだ。
もし彼が二千年に一度の天才として生まれたとすれば、偉大なのは彼自身ではなく、彼を生んだ両親ということになる。また、どれほど優れた革命指導者の発言も、歴史的条件を抜きにしては考えられない。毛沢東自身あれほど強く教条主義の誤りを何回も戒めたではないか。永久に彼の言葉をそのまま固守するのは毛沢東思想自体に反している。この時すでに私は林彪の思想と姿勢に疑念を抱いた。
しかし、毛沢東の最も親密な戦友として中国人民革命に貢献したと書きたてられ、党大会で満場一致でその後継者と指名されてみれば、獄中の私はそう信じないわけにはいかなかった。くり返される幾十万人の文化大革命集会やデモ行進の際に、毛沢東と肩をならべて群衆にこたえている林彪の写真はその印象を深めさせた。
彼は国防部長としての地位を十二分に利用して中央各機関と地方政府の職権を次々に奪っていった。各省各県政府の機能は事実上停止され、「革命委員会」が権力を握った。その中心は人民解放軍であり、それに造反派代表が加わった。中央から地方まで党政府幹部はすべて解放軍の服装をし、「毛主席語録」を必ず手にしていた。いわゆる「奪権闘争」である。林彪は「毛主席語録」さえあれば「悼を立てれば直ちに影が見える」如くあらゆる問題の答が出る、長々とした論文は不必要だと強調し、安直な実用主義を宣伝した。同時に「権力がすべてだ。権力さえ握ればいっさいが掴め、権力がなければいっさいを失う」と主張したため、奪権闘争のこの"理論"に煽られて、全国で権力を奪い合う武闘までが惹起された。どの機関や企業でも二派三振に分れ、権力を争った。
その結果、文化大革命は「武闘革命」に変ってしまった。当然生産カは低下し、社会秩序は混乱した。その意味ではまさに十年の大災難であった。
だが、やがて毛沢東は林彪の極左路線に気づき、鋭く批判するに至った。「権力がすべてなのではない。根本問題は路線の正否にある。路線が正しければいっさいが得られ、路線が正しくなければ得た権力も失われる」と。
しかし林彪は救いがたい権力亡者であった。毛沢東はじめ党首脳は国家主席は不必要と考えていたが、林彪はしつこく国家主席のボストを要求し、権力の座を夢見続けた。その夢が実現不可能とわかるとついにクーデターを起し、毛沢東を殺して国家権力を奪取することを企てて失敗、ソ連へ飛行機で逃亡中、蒙古の砂漠に墜落死したのである。
林彪の害は甚大であった。しかも江青、張春橋、王洪文、姚文元ら四人組と緊密に協力しての策動だったので、中国人民のこうむった被害は計り知れないものがあった。
文化大革命がその意図した歴史的目的に相反した惨禍に終ったとすれば、その主な責任は林彪と四人組にあった。そもそも林彪が毛沢東を不出世の天才と讃え始めた時、獄中の私でさえ、一〇年前に全世界の指弾を受けたスターリン個人崇拝問題はもう忘れられたのかと首をひねったものだ。
何故林彪や四人組の類が幅をきかせ、その極左路線がプロレタリア文化大革命を悲惨な結末に追いやるのを防げなかったのか? よくはわからないが、その根源は、やはり人民中国の圧倒的大衆が小ブルジョアであり、その熱狂性を彼らに利用されたことにあるのではないだろうか。
*1 一九五頁参照。
*2 (一九〇〇〜 )日本留学時に孫文の知遇を得て在日華僑の組織化に奔走し、北伐に参加、魯迅と抗日を呼ぴかけ陶晶孫らと左翼作家連盟を指導、文革期に失脚したが、再び文芸界で要職を歴任。中日友好協会会長。『日本回憶―夏衍自伝』。
*3 (一八九八〜一九六八)二一年東京高師卒業、新劇、映画界で活躍し、三四年逮捕される。抗日戦争中は演劇工作を担当し戯曲も書いた。中国国歌の作詞者として知られる。六四年前後の京劇の革命化に反対の立場にたち文化大革命では集中的な攻撃をうけた。
*4 (一九〇四〜 )上海労働大学、モスクワ孫文大学に学び、天津で地下運動に従事、のち延安で毛沢東の秘書となった。四九年中共中央宣伝部副部長、五八年中共理論機関誌「紅旗」編集長となり六六年文化革命小組長、政治局常務委員となった。
*5 (一九一四〜一九九一)三〇年代に上海の演劇界で活躍していた。三三年中国共産党に入党、三九年毛沢東と結婚。文化革命小組副組長となったが、四人組の陰謀の責任を問われ、伊藤が収容されていた秦城監獄に投獄された。のち自殺した。
*6 (一九一八〜 )中央文化革命小組副組長。のち党政治局常務委員、副首相となる。八一年「死刑(執行猶予二年)終身政治権剥奪」の判決をうける。
*7 七五年一月の第四期全国人民代表大会で周恩来が政府活動報告の中で提示した農業、工業、国防、科学技術の現代化をさす。
(「伊藤律回想録-北京幽閉二七年」第四章のT及びU、兜カ芸春秋、1993年)