1967年3月の善隣学生会館闘争を闘った華僑学生と支援の日本人青年は、ベトナムの抗米戦争、中国の文化大革命に連帯し、プロレタリア国際主義による世界革命の運動を日本で担うべく、日中青年学生共闘会議を結成しました。
1967年3月号の中国研究月報に、「善隣学館闘争と我々の今後の闘い」という宣言が掲載されています。同共闘会議の運動は、1967年10月、11月の羽田闘争、翌1968年の全国的な大学闘争の一翼を担い、また、華僑青年達の一部は華僑青年闘争委員会を結成して、それらの闘いに連帯し、出入国管理法案、外国人学校法案反対闘争を主体的に闘いました。1970年7月7日、華僑青年闘争委員会は、新左翼党派に訣別宣言を提起し、日本の左翼的な人々に対して、差別や戦争責任の問題の重要性を再確認させました。 |
2000年12月2日 猛獣文士 |
善隣学館闘争と我々の今後の闘い |
日中青年学生共闘会議 |
3月2日,日共修正主義者の気違いじみた暴行に端を発しだ善隣学館斗争は,現在きびしい対峙の中で,新たな段階を迎えつつある。
日共修正主義者は,日々孤立を深めながらも,反中国運動の拠点としての二セ「日中本部」を必死に守りつづけ,今もなお「赤旗」紙などで事実の歪曲,デマのねつ造にやっきになっている。彼等は,「法律」としいう権力の庇護の力をかりて,この反中国の拠点を維持しながら新らたな攻撃の機会をねらっている。
これに対する我々の斗いは,「反中国分子を会館から叩き出す」ことを基本にすえながら,長期戦による敵への政治的包囲,遊撃戦による敵への日常的打撃を徹底して行ってゆくべき段階に入っている。
長期戦においては,広汎な人民大衆と結合し,その中での政治的宣伝を強化することは非常に重要である。全国の同志をはじめ我々の連日の大衆的宣伝戦の前に,彼らが何よりも大切にし,かつ依存している「選挙運動」は大きな打撃をこうむりまた「赤旗」紙などの大量減紙などが相つづき,善隣学館斗争の影響に恐怖している。この点からも,我々の斗いは大きな前進を示していると言えよう。
しかし,我々が真に善隣学館斗争の終局的勝利を望み修正主義を一掃し,中国の青年学生諸君との戦斗的な連帯を強化発展させようと欲するなら,斗いを宣伝戦,外囲作戦のみに歪小化し,固定化してはならない。
相互討論によってこの斗争がもっている真の政治的意義を正しくつかみとり,同時に自己内部の修正主義,動揺を克服してゆくことが非常に重要である。
日共は長年にわたって自己内部に修正主義を持ちつづけてきた。しかし彼らはそうした体質と理論を底にもちながら,口に「毛沢東思想」の偉大さを言い,「日中友好」を唱え,そのことを政冶経済などあらゆる分野で「資本」として利用し,日本人民の信頼をあざむき取り,かれらの私欲をみたしてきた。
しかし,べトナム解放斗争,中国プロレタリア文化大革命を中心にした世界革命の急速な前進によって,彼らの修正主義,反中国の本質は次第にあらわになってきた。彼らはそれを「自主独立」などという言葉でごまかしつづけてきたが,今度の善隣学舘斗争は,その一切のまやかしのべールを一挙にはぎとった。
善隣学館斗争は,日本の人民大衆に一切の修正主義とそれに対立する毛沢東思想の違いを事実によって決定的に明らかなものにさせた。このことは日本のみならず国際的にも大きな意義をもっている。
2.この斗いは,中国におけるプロレタリア文化大革命とそれを発動させている毛沢東思想の,日本における実践的継承の出発点である。
日本の革命運動の中で,真の意味での「毛沢東思想の実践」が深刻な課題として受けとめられたことは,ほとんどなかったと言える。これまでも種々な形で毛沢東思想と中国共産党の路線に対する肯定的な評価は存在していた。しかしそのほとんどは日本革命の実践とは切りはなしたとらえ方であったし,したがって自分自身を毛沢東思想によって実践的に改造していく観点を失っていた。
そのため,毛沢東思想がソ連現代修正主義グル―プを中心とす国際的な修正主義反対斗争をへて,フ口レタリア文化大革命として決定的な発展をとげ,「世界革命,連続革命,プ口レタリア革命」の思想としててご真の姿を現わした時,いわゆる「口で毛沢東思想を唱える反毛沢東思相」の持主,自称者は,またたく間にその正体をさらけ出し,みじめな反中国分子に転落したのである。
善隣学館斗争は,形は小さくとも,その本質に於てまさに「真の毛沢東思想の実践とは何か」「毛沢東思想の実践に反対か否か」という問題を鋭く提起している。だからこそ,かつてのニセ毛沢東讃美者,日共修正主義者たちが,気狂いじみた大キャンべーンとその反革命的力の集中的な注入をこの善隣学館斗争にむけているのである。
善隣学館斗争は,すべてつ人々に対し,日本における階級斗争の中でこの問題をどう評価するのかを迫っている。
3. 日共による善隣学館襲撃は,単なる暴カ団的テロ行為ではなく,国際共産主義運動の総路線における彼らの裏切りと,修正主義,反革命陣営への参加を決定づけるものである
我々は,今度の日共の善隣学館襲撃を,単なる暴カ団的行為という現象面だけでとらえてはならない。重視すべきなのは,彼らの攻撃,政治宣伝の中の最も重要な特徴点「中国人学生による日本国民への不当な干渉である」と強調している点,そして「日本における紅衛兵」と宣伝している点である。
この言葉は,端的に彼らが「民族排外主義」「連続革命への恐怖=反革命」に転落してしまったことを示している。だからこそ反動派と同じ口ぶり,同じ言葉で中国学生同志や我々を攻撃しているのである。
我々は,修正主義者が全く同じ経路で反革命に転落していった姿を,歴史の中で数多く知っている。日本においても戦前の「転向者」がそうであったし,戦後も我々青年学生の中からさえ数多くのこうした例を身近に経験している。「民族排外主義・反プロレタリア国際主義」と「連続革命,世界革命の否定」は修正主義=反革命への決定的を分岐点である。
我々は,この問題の深刻な内容を自分自身の問題としてとらえかえしてゆくために,中国の党や毛沢東同志も追求しつつあるように,世界革命運動の歴史的なとらえかえし,特にスターリン問題を(フルシチョフやソ連修正派が行ったとは全く逆な角度から)現時点で正しく追求してゆく必要に迫られている。
日共修正主義者は,われわれの立場とは逆に,善隣学館問題を直接的契機として修正主義=反革命の国際路線へ大急ぎで仲間入りを公然化しつつある。善隣学館斗争は,ここでも我々と彼らとを決定的に分岐させているのである。
4.マルクス,レーニン主義,毛沢東思想による日本青年学生実践部隊の最 初の共同行動,統―戦線を生み出した
様々な理由や方法によって毛沢東思想を理解し,実践しようとしてきた我々青年学生は,善隣学館斗争以前には何らの連繋も共同の組織も持ちえなかった。この斗争は,日共修正主義者によってつくりだされていたこのような障害を一挙に吹きとばした。全く一面識もなかった,また思想的にも異る道を歩んできた仲間が,まさにこの斗いの中で結集し,共に斗い共に語る中で強固な連帯をうちたてることができた。これは非常に重大な意義をもっている。何故なら,毛沢東思想とは,先づ第―に実践,斗いの中で敵,味方を明らかにし仲間をしっかりつくりあげてゆくことであり,組織は斗いの中からこそつくられてゆくということを示しているからである。
さらに,斗いの中から,しかも中国の青年学生同志諸言と共に斗う中からつくられた我々の実践組織=日中青学共斗会議は,毛沢東思想によって結合し,日本革命における不可欠な政治的大衆部隊として重大を役割を果してゆくであろう。
我々は「ブロレタリア国際主義」について理論上でいつも口にしていながら,これを実践的にとらえることに欠けていた。したがって「国際主義」心からの実感としてとらえることも殆んどなかった。「友好」はあっても「戦斗的友誼」はほとんどなかった。
善隣学館斗争は,そうした頭の中だけの「プロレタリア国際主義」を実践的に検証し把握する重要な契機であった。あれこれのプロレタリア国際主義を書斎の中で論じているか,それとも斗いの中で学ぼうとするのか,それをはっきりさせることができた。
では,なぜ善隣学館斗争はプロレタリア国際主義の真の実践場になったのか?理由は簡単である。中国の同志たちのここでの英雄的な斗いが,単なる中国人留学生の生活,利益の擁護とか,狭い愛国主義の斗いとして斗われたのではなく,日本での「反修闘争」という世界的な課題,真のプロレタリア国際主義という世界的課題として斗われたからである。
だからこそ,我々日本の青年学生の斗いも,最初は支援という形をとりながらも,それは直ちに中国の同志たちとの連帯した闘い,共同の闘いへと発展した。それが我々にとって,真のプロレタリア国際主義を把握させ,実感させたのである。
6.毛沢東思想を「活学活用」し広汎な日本人民に服務することを学んだ
この斗いに参加した多くの青年学生,とくに学生の多くは,インテリにありがちな傾向として毛沢東同志の言葉たとえば「老三篇」などを自明のこととして真に学び実践しようとしない者が殆んどだった。(「老三篇」とは「人民に奉仕する」「べチューンを記念する」 「愚公,山を移す」の三篇である)
「解放軍報」社説にもあるように「老三篇は読んでわかりやすいが,それをほんとうに実行するのは容易ではない」のである。この斗争に結集した日本の青年学生,中国の青年学生は,それぞれの立場から種々な問題を提起し実践する中で,深刻に自己批判をした。あらためて「老三篇」の内容の重要性を知り,自己改造の必要性と人民への服務の重要さを確認することができた。我々の多くは「語録読みの語録知らず」であり「毛思想を唱える非毛思想者」であったことに気づかなかった。それがこの斗いの中でわかり,克服の第一歩をふみ出すことができた。
このことは単に我々の前進のみでなく,毛沢東思想の日本にかける実践の全路線にとっても,前進の足がかりとなるだろうし,又,そうさせねばならない。
我々の善隣学館斗争は,反帝,反修斗争の―環であり中国のプロレタリア文化大革命の斗いに堅く結合している。そのことは,とりもなおさず,我々の斗いがべトナム革命斗争と国際総路線におけるソ連など現代修正主義との斗いの日本における実践という課題へ発展してくる。
言いかえれば,我々の反修斗争は,単に日共指導部の誰それと斗うことのみを自己目的とするものではなく,その政治路線全体と斗うことである。その路線上の最重要な対決点が,中ソ間でそうであったように我々と日共の間でも「べトナム問題」である。この課題をぬきにした反修斗争はないし,又,反修斗争と反帝斗争の結合もない。
日本におけるべトナム斗争の緊急課題は沖縄問題,基地問題(砂川ほど)軍需生産,輸送問題など激しく我々に迫ってきている。我々はこれらの斗いを善隣学館斗争−反修斗争−反帝斗争の結合発展の中でしっかりと捉えねばならない。
このことは逆に,善隣学館にかける今後の斗いの方向についても,反帝斗争−反修斗争という基本的観点から捉え直すことの重要性を示している。この観点をしっかりふまえれば善隣学館斗争が,単なる陣地の取りあいでもなければ,ましてや法廷斗争,宣伝競争でもないことは明らかである。
二セ「日中本部」は,反中国すをわち修正主義−反革命の拠点であり出城である。これと断固,日常的に対決し斗ってゆくこと,同時に,日中友好の発展は広汎な,人民の共通願望であり,我々の反帝反修闘争もこの土台と結合した闘いであることを,しっかり把握せねばならない。
そのためには,広汎な人民の斗いと結合しながら,この敵の鼻先に,我々の反修,反帝,革命の拠点をつくり斗うべきである。我々の拠点,育学共斗の本部はこの会館内におかれ,毎日,毎時,二セ「日中」とあらゆる有効な方法を駆使して斗いぬいてゆく。
彼らが叩きつぶされるまで,青学共斗のカはここに集中されている。
(中国研究月報1967年3月号より転載)