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深夜、紅衛兵の攻撃の開始 |
北京とおなじカべ新聞 |
◎深夜、紅衛兵の攻撃の開始
一九六七年(昭和42)の二月二十八日、夜も遅くなって来た。東京文京区の小石川にある善隣学生会館内の日中友好協会本部では、女性をふくむ五人の事務局員が残業していた。
「そろそろ、帰ることにするか」
と私は事務局員に声をかけた。みんなも、
「うん、おそくなったね」
と返事があった。しかし文書の発送があり、全国大会の事後処理が山ほどある。
十一時ごろ、突然、十数名の華僑学生が大声をあげて協会事務所に押しかけてきた。みると顔がひきつっている。会館玄関正面口ビーに張っている彼らの壁新聞を協会事務局員が破ったという抗議である。
会館玄関から風が入って来る。風に吹かれて破れたのであろう。
押しかけてきたのは会館の三、四階にある華僑学生寮・後楽寮の学生たちだ。
小山事務局員が部屋の外で、華僑学生に取りかこまれている。
こずかれメガネを壊されるなど、乱暴されている。彼らは、
「修太郎はでていけ」
と叫びだした。
「修太郎」とは「修正主義者」という意味である。
北京では毛沢東路線になびかない者をこう呼んでいた。他の事務局員が小山事務局員を助けだし事務局へ連れ入れ、入り口をしっかり閉めた。やがて急をきいて、自宅に帰っていた事務局員、自宅に帰っていた事務局員、東京都連合会の支部の協会員らもかけつけてきた。私たちは、
「挑発には絶対にのらない。侵入をさせないように入り口に気をつけよう」
とみんなで打ち合わせをした。
しばらくして華僑らの数はふえだした。
午前一時、東京の華僑総会のメンバーが押し寄せて来た。協会員の通行はできない。彼らの通行妨害の写真をとろうとした協会員がつかまり、十数人に押さえ付けられなぐったりけったりの暴行をうけた。数十人が翌朝まで玄関口ビーにストーブ、椅子をもちだして協会員の出入りをさせないために固めた。
玄関近くにある便所に行けなくなった。バケツに用をたすようにした。
一睡もできないまま夜が明けた。
朝方、電話がなった。出ると、中国人らしいなまりのきついドスのきいた声で、
「おい、命をかけてお前たちを追い出してやるぞ」
という。脅迫電話があいつぎかかってくる。
会館周辺は、彼らの動員者の姿が増えだしてきた。
長い第一夜があけた。
翌日からさらに、エスカレートしていく。
「日中友好協会本部事務所の奪還」を呼号したこの野蛮な暴力事件は、これからじつに二年数ヵ月にわたってつづいた。
深夜、白昼を問わず、毛沢東語録を振りかざしての組織的襲撃は、じつに一〇五回以上におよび、それによってわが協会は、重傷ふくめ負傷者は二百数十人に上る大事件に発展した。届け出てこなかった軽傷者をふくむと、数百人のケガ人になるだろう。
負傷した人たちは、協会員や、危急をきいてかけつけてきた知人、私たちの身を案じて助けてくれた日中支援共闘の仲間たちである。
背広、シャツを引き裂かれた者も数多くある。この日中友好協会本部襲撃事件――いわゆる「善隣学生会館事件」は、まさに中国の干渉下、直接の支持、激励のもとにおこった大事件だ。
しかも奇妙なことに日本のマスコミの多くはこれを黙殺し、報道しても「中国派と対立してトラブル」などと、歪曲した報道であった。だから国民の多くは、この事件を知る機会がなかった。
◎北京とおなじカべ新聞
この善隣事件発生までの経過をみると、こうである。
会館内の華僑学生が「紅衛兵」化してきたのは、前年十月、黒田会長、宮崎理事長の「日中友好協会正統本部」、つまり文革支持の旗色を鮮明にして協会から出た脱走派が旗揚げしていらいだ。彼らの脱走事件に呼応して、会館内での干渉行為が目立ちだした。
それまでは、華僑学生たちと、日中友好協会の若い事務局員とは、仲よくやってきた。
それが中国の文化大革命の高揚化とともに、学生らは赤い表紙の「毛沢東語録」を身につけ、学習し唱和するようになり、日本在住「紅衛兵」に変貌してきた。
在外華僑にたいする従来の中国の方針は、居住国の習慣を尊重し、政治活動に参加させないという態度であった。
一九五九年(昭和34)の全国人民代表大会で、周恩来首相がこの方針をあきらかにしてから、日中友好協会の役員をしていた華僑代表はことごとく退いた。
ところが、「正統本部」が旗揚げした翌月、不干渉の原則をを破って、華僑学生たちが協会誹謗の壁新聞を貼りだした。
この壁新聞の最初のものは、脱走派の「正統本部結成」にさいして、趙安博が北京から「正統本部」に打ってよこした創立祝賀電報の紹介で、内容はわが協会を不当に中傷・攻撃したものであった。さらに「ニセ日中はでていけ」などの、壁新聞が続々はりだされた。
これに呼応して「正統本部」内に、異変が起きて来た。
「造反有理」「一は二になる」とした毛沢東哲学を信仰する彼らは、北京のサル真似を拡大し、「造反団」なるものが本部内に生まれ、組織内抗争が開始された。造反団は、まず華僑学生らの善隣会館内の闘争をほめたたえ、一方で昨年秋に集団脱走にさいして「事務所を放棄」した三好事務局長らの責任が問われ、内部での「吊し上げ」がはじまった。
会館内は口ビーからいたるところに壁新聞は貼り放題だ。
こんな状態を放置してきた財団法人・善隣学生会館とは、どんな財団なのか、理事には正統本部顧問の中島健蔵、社会党の穂積七郎代議士らがいて、にらみをきかせている。かって日中友好協会が推薦して入れた理事である。彼らは協会から脱走したのに理事をやめず、会館管理の主導権をにぎり、華僑紅衛兵に自由に使わせ、われわれを外に追い出すことをねらっていた。
善隣学生会館の由来は、戦前に「満州国」政府と日本の財閥が資金をだして建設したレンガ作りで、東京では珍しい広大かつ堅牢な建物であった。
かいらい「満州国」の官吏養成のため、日本へ送られてきた中国人学生の寮に当てられた。その名前も「満学会館」であった。
戦後は外務・文部省管轄の「財団法人善隣会館」に衣替えをした。
理事長に元高級外務官僚の守島伍郎、常務理事には旧満州電電東京支社長の森という人が就任した。
協会の武井勝常任理事らが、紅衛兵の暴カ行為で会館に抗議に行ったときに、守島理事長は武井さんに、こんなことを言っている。
「あなた方は紳士的だが、華僑学生は困る」
一九六四年(昭和39)に、この会館の華僑学生たちが、会館側から追い出されそうになった「後楽寮事件」がおこった。この事件を知る人は言っていた。
「この追い出しから華僑学生らを守ったのは、日中友好協会や日本共産党の議員、自由法曹団の弁護士であったのに、それすら華僑たちは忘れたのだろうか…」
(橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」第1章 東京でおこった文化大革命、日本機関紙出版センター、1996年)