朝日新聞の記事も三月二日の午前中までの取材による記事のようです。善隣学生会館の沿革の解説を付け加えるなど、前提になる知識の紹介に気を配っている点が印象的です。
2000年12月24日 猛獣文士


 3月2日朝日新聞朝刊15面には、「青鉛筆」というコラムがあり事件を紹介していましたので、追加しました。
2001年2月18日 猛獣文士

青鉛筆(朝刊)

 ▼一日夜、東京都文京区後楽一ノ五ノ三財団法人善隣学生会館に日共支持の学生や労組員約四百人が押しかけ、同会館に泊っている在日中国人の子息ら約百人と道をはさんでにらみ合った。

 ▼いざこざのもとは、中国支持派で占めている会館の一階に、日共支持の日中友好協会が、でんと居を構えているため。中国人学生は、同事務所前で抗議集会、一方の日共支持派は「不法監禁だ」と動員をかけ、一時は険悪な状態。

 ▼協会事務局員が、まん前の廊下に中国でいまはやりの「挑発的壁新聞」をはられたのを怒ってはがしたのが、日ごろの対立に火をつけたが、そのあげくは、両方とも大きらいの警視庁機動隊を通じて話をつけ、この日の騒ぎは二日午前一時、六時間ぶりにやっとケリ。


(「朝日新聞」昭和42年3月2日朝刊15面)

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騒ぎ再燃、けが20余人(夕刊)
善隣学生会館  中国人学生ら


消火器や棒を振り回して乱闘する中国人留学生と日共支持者(善隣学生会館で2日午後2時)

 一日夜、警視庁機動隊まで出動した東京都文京区後楽一ノ五ノ三財団法人善隣学生会館内での在日中国人学生と日共支持「日中友好協会」系の人たちの対立は、二日再燃し、両方に怪我人がでて、再び警視庁機動隊が待機する騒ぎになり、同会館は午後まで、異様な空気に包まれた。

 警視庁の調べによると、同日七時ごろ、前夜の騒ぎを聞きつけた日共支持派の十数人が、同会館一階の同協会事務所にはいろうとして、同会館玄関でこれを阻止しようとした在日中国人学生四人と小ぜり合いを起こしたあと、両派合わせて約百人が衝突したため双方に一人ずつのケガ人(警視庁調べ)が出た。

 同会守衛が一一〇番、同7時四十分機動隊二個中隊が出動したが、中国人学生は同会館玄関ホールに集り、日中友好協会事務局にたてこもった人たちとにらみ合った。同十一時には中国人学生たちは、日本語版毛主席語録を唱和、館内で乱闘が起るのを心配して待機する機動隊に「帰れ、帰れ」と一斉に叫んだ。一方、日共支持派も前夜に引き続いて約四百人を動員、会館近くの歩道に集った。

 ところが、同午後一時過ぎ、中にたてこもっている同協会派の人たちに弁当を差し入れようとした人たちを中国人学生が阻止したため、騒ぎが大きくなり、同会館一階廊下で、中国人学生と同協会系の人たちが、竹ザオなどを持って乱闘、二十数人の重軽傷者が出た。同会館側は一時五十分、一一〇番したが、乱闘は間もなくおさまり、にらみ合いが続いた。

 中国人学生たちは同二時すぎ、玄関と同協会事務局入口の二ヵ所にイスや机を持出してバリケードを築いた。

 こんどの騒ぎの直接原因は先月二十八日夜、日中友好協会の一人が、廊下の壁新聞をはぎとったことだが、去年十月、それまでの日中友好協会が日共支持の「日中友好協会」と中国支持の「日中友好協会正統本部」に分裂して以来、日共系の事務局がそのまま善隣学生会館内に存続した形となっていることが、原因と見られる。


  善隣学生会館 財団法人満州国留日学生会館として昭和十三年に発足、戦後善隣学生会館に改組して守島伍郎現理事ら理事会構成で運営にあたってきた。理事会は外務省や学者など比較的中立的な人が多く、現在同会館には在日中国人子弟の泊る後楽寮をはじめ日中友好商社、日本輸出入協同組合など二十余社がはいっている。


(「朝日新聞」昭和42年3月2日夕刊9面)

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