日本経済新聞は、この新聞の印象とは裏腹に、最も詳しく事件の情報を伝えています。主要な他紙が三月二日午前までの取材で切り上げ、三月二日付けの夕刊にだけ、記事を掲載しているのに対し、日経新聞では、この三月二日夕刊の記事の後でも取材を続け、三月二日午後四時ごろに発生した、日本共産党側の武装部隊の暴行まで取材を継続し、その記事を翌三月三日の朝刊に掲載しています。 |
2000年12月24日 猛獣文士 |
友好協会とけんか |
留学の“紅衛兵”さわぐ |
会館内で激しくもみ合う留学生と日共系の学生 =文京区の善隣学生会館で |
二日午前七時ごろ、東京都文京区後楽一ノ五ノ三、財団法人善隣学生会館後楽寮(守島伍郎理事長)の正面入り口で、同会館一階にある日共系日中友好協会の協会員二十人と中共系の在日中国人寮生とが衝突、なぐり合いのけんかとなり、中国人側二人など数人のけが人が出た。
管理人の一一〇番で警視庁機動隊員や富坂署員など約百人が出動、衝突の整理、調停にあたったが、寮生側は廊下に毛沢東語録などの壁新聞をはり気勢をあげて、にらみあいを続けたが、午後一時半ごろ消火器や竹ざおを使っての乱闘が起き、さらにケガ人が出た。このため同会館事務局の要請で同二時警視庁から機動隊が出動、警戒に当たっている。
けがをしたのは協会側の森下組織部長が右目、寮生側の王政明君(19)が頭になぐり合いでそれぞれ一週間の軽傷。
衝突は二月二十八日夜から続いているもので、同夜協会事務局員が正面ロビーに寮生側が張り出した「ニセの日中友好協会出てゆけ」という“壁新聞”を破った、破らぬで、問題となり、館内でにらみ合いを続けていた。
一日には全学連日共系学生も加わり、二日未明協会側の二十人が事務室の五十人と合流しようとしてもみあい、また騒ぎとなったもの。
この日は早朝から怒号とバ声、あるいは歌声が響き渡って近くの人たちはびっくり。このため同館に出勤してきた商社員らもシャットアウトされた。寮生側は毛語録を赤い髪に大書して張り出し、壁を協会を非難する“壁新聞”で埋め、大きな毛主席の写真をかかげ革命歌「東方紅」を大声で歌ったり、シュプレヒコールをして、まるで紅衛兵もどきの騒ぎ。
富坂署では一応傷害事件として両方の関係者から事情を聞いているが、これまでわかったところでは、両派の争いは昨年十月末、日中友好協会が日共系と中共系に分裂、中共系が追い出された形で新宿に正統協会として新しい事務所をかまえ、日共系が善隣学生会館内の事務所に残って中共系寮生と“同居”していた。
(「日経新聞」昭和42年3月2日夕刊7面)