Q3 | 中国の「文革」とは何だったのでしようか。この「文革」は対外的には諸外国にどんな影料があったのでしようか。 |
「反社会主義の黒い糸」に対する批判・攻撃する 「文化大革命」のカベ新聞(1966年) |
中国の「文革」は1966年から76年までの10年間つづいた政治的な「暴乱」(暴力による動乱)のことをさしています。中国では1億2千万人がまきこまれ、多数の死傷者、えん罪者がでました。
「文革」とは、当時の,中国共産党主席であった毛沢東を中心とする―派が、毛沢東の絶対的権威、個人崇拝のもとに、専制支配の確立を目指し、批判するものは拘束し、無条件に従わない党幹部を打倒した権力闘争です。末成熟の若者を「紅衛兵」(のちに幼年者を「紅小兵」と呼ぶ)とあおり、彼らによる暴力がおこなわれました。
この間、経済は停滞し、国民生活は極端に落ち込みました。中心となっていた毛沢東の死去(1976年)にともなって「文革」は収束して行き、1981年の中国共産党第11期6中総で「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」を採択し、「文革」の誤りをみとめ、国内的には―応の区切りがつけられました。えん罪を受けた人々も大半は名誉回復がなされています。
この中国国内の「文革」は対外的には、「文革」の無条件の支持、毛沢東思想の礼質、武装闘争の強要のかたちでおしすすめられました。その結果、イタリア・フランス・ポーランド・スウェーデン・セイロンをはじめ世界各国に「文革」を支持する組織がつくられ、暴力闘争を展開したため世界各国の民主運動に重大な悪影響をあたえたのです。
ことに日本への干渉は激しいものがありました。個人、研究者、報道関係者、団体、政党に変節をうながし、それに失敗すると、自分たちに盲従する追随者による分裂組織を作り、暴カさえつかった破壊活動を展開しました。日中友好協会にたいしては、1966年10月に分裂組織が作られ、あとでくわしく述べるよぅに67年2月から3月にかけては「文革」を礼賛し、中国に追従迎合した人々を使い、暴力をもって日中友好協会本部事務所を襲撃しました。
中国はその後もこのよぅな対外干渉について反省せず、自国の国益を優先し、「文革」を賛美した団体や個人を依然として利用しています。「文革」が外国にあたえた悪影響はいまだに解決されていません。「文革」は決して過去のできごとではないのです。