Q2 | 「文革」が起きる前はどういう日中友好運動を進めてきたのですか。 |
日本で亡くなった中国人俘虜殉難者の遺骨を中国に送還(塘古埠頭・1955年) |
日中友好協会は戦争中に日本に強制連行された中国人の実態調査や犠牲者の慰霊、日本で亡くなった中国人の遺骨送還運動などをおこないました。また、当時中国に残っていた在華邦人(日本人)の早期帰国のために努力しました。さらに、歌舞伎の北京公演、中国京劇団の東京公演や中国映画を各地で上映するなどの各種の文化活動にとりくみました。そのほか、中国民芸品の普及即売、貿易展覧会や訪中者の報告会、中国事情や日中問題の講演・講座の開催など多彩な文化宣伝活動をおこないました。
日中国交回復運動にも早くからとりくみました。1964年、フランスが中国と国交回復したことをきっかけとして、日中国交回復運動はいちだんと高まり、同年2月には各界代表の25氏が「よびかけ人」となり、日中国交回復実現を政府に要求する3千万署名運動を大々的に提唱しました。この「よびかけ」の内容は(1)中華人民共和国との国交を即時回復し、貿易、経済、文化の交流を拡大すること、(2)日台条約を破棄し、台湾との不正常な関係を清算すること、(3)中華人民共和国の国連における正常な地位の回復のために努カすること、が述べられています。この「よびかけ」は多くの国民から支持され、協会は日本平和委員会、総評、社会党、共産党とともにこの署名運動の「推進団体」の一員となり、これを友好運動の中心の柱にして運動をすすめました。
東京・晴海での中国見本市(1954年) |
この署名運動は、一年後の1965年4月までに130万人に達しました。
国交のないなかで、日中経済交流についても努力しました。64年4月から6月まで東京と大阪で開かれた中国経済貿易展覧会に協会も協カし、東京で81万人、大阪で152万人の参観者を集めました。こぅした世論を背景にして友好貿易や長期の見通しをたてたLT貿易がおこなわれ、64年は日中双方とも貿易高を前年の1億3700万ドルの2倍にまで発展させる意気込みでとりくみ、民間貿易の発展に力をつくしました。
こうした多彩な活動のなかで協会組織体制の確立と会員拡大運動にも取り組み、64年の大会で3万人の会員を5万人に増やすことを決め、65年の大会では2万人以上の新しい会員を増やし、百をこえる新支部と全国36都道府県連合会、360支部、会員数は5万1500人となりました。しかしその直後、66年の中国の「文革」と大国主義的干渉によって協会組織は分裂攻撃をうけ大きな打撃をうけました。