(一) 理事長としての十七年
仕事の数かず
一九六三(昭和三十八)年五月二十三日、日中友好協会第十三回全国大会で、わたしは、専従の理事長に選出された。
わたしが、これまでに日中友好協会でやったおもな仕事といえば、協会の創立に参画したこと、朝鮮戦争勃発下でアメリカ占領軍・日本政府の圧迫に抗し日中友好を宣伝したこと、在華邦人と在日華僑・日本戦犯の帰国援助、市川猿之助歌舞伎一座の訪中公演のお膳立て、日中漁業の平和操業のための諸活動、へルシンキ世界平和大会への参加などであった。いまにして思えば、これらのほとんどは、統一戦線にかかわる仕事であった。
理事長に就任したころは、岸・佐藤内閣の反中国政策によって、民間交流が断絶した困難な状況のもとで、こつこつ民間の友好を積みあげ、「政治三原則」、「貿易三原則」などを確認し、ふたたび民間交流の道を切り開いていく過程だった。その後は、協会内の「日共」分子との分裂後の協会組織のたて直し事務所の安定設立、協会内部の分裂と団結、医療部会・商社部会の育成、日中国交回復実現への努カなどの仕事がつづいた。
左を向けば
わたしが理事長を務めているあいだに、松本治一郎会長が死去し、黒田寿男副会長が会長になり、事務局長も替わった。わたしは協会運動のすすめかたについて、ややもすれば会長、事務局長、事務局と意見の相異を来たした。
たとえば、K会長のとき、かれはおもに社会党系の会員を率いて強引に協会を離れ、別の活動本拠をつくった。こうして協会内の矛盾は、組織分裂にまで発展した。ちょうどそのころ中国では,文化大革命の動乱がまだつづいていて、協会全体がその悪い方の側面の影響を受けていた。協会内に勢力のある日共(左派)なるセクトが組織されたばかりでなく、M事務局長がそのセクトの有力な指導者であったため、協会の運動は、大衆団体にふさわしからぬ尖鋭なものとなった。日中国交回復を政府にやらせるのはいけない。財界と提携して中国展協カ会をつくってはいけないという具合であった。協会の分裂は、日共(左派)のこうした専横ぶりにたいする社会党系会員の反発が原因であった。わたしはどのセクトにもくわわっていなかったから、K会長一派との話しあいによる解決に努カしたが、成功しなかった。K会長の頑なな態度により、わたしは日共(左派)とともに、これまでの事務所を本部とすることにした。反対派のなかには、わたしが日共(左派)に所属していると誤解した人があったかもしれない。
中国は、日中友好協会の内部がこんなになったのを大変心配して、一九七〇年十月、浅沼殉難十周年記念集会に参加するよう、分裂両派(K会長とその一派、わたしと旧本部派)および日中文化交流協会に招請状をよこした。わたしどもは、北京に到着したその日に、周恩来総理と会談したが、周総理は、長時間、情理を尽して明日の記念集会に両派が仲よく出席するように説得した。周総理は、翌日の集会場にまでわざわざやってきた。その熱情的な配慮は、いまも肝に銘じて忘れられない。
右を向けば
そのころ、ある協会代表団が訪中した。そして中国側と話しあいのなかで、ひとりの団員が「わたしの県に○○という会社の工場がある。この会社は労働者圧迫がひどく、われわれは常づねこれと闘争している。中国はこの会社の製品の購入をやめてほしい」といった。これにたいし中国側は、「中国のこれからの建設資材は、いわゆる友好企業のような小さな会社ではつくれないものが多い」と答えた。また日中国交回復に関する団員の発言にたいして、「貴国の社会党が政権をとるのは、五年さきか、もっとさきか、中国は早く強大な社会主義国を建設しなげればならない。貴方がたが政権をとるまで待っておれない」などともいった。
第二の事務局長Nは、中国側の考えは、「これからの中国では現代化が最重要課題であり、日中友好もこの現代化に直接、具体的に貢献できなければ、友好にならない」ということだ。だから「友好のためには、何事も中国のいいなりにするのが一番よい」というのだ。わたしがこれに反対意見を述べ、「わが協会は日本人の団体である。中国にたいし意見があれば、遠慮なく述べることが必要だ。これが本当の日中友好だ」というと、N事務局長は、「貴方のいうのは、代々木のいい分と同じだ」といい切った。そしてわたしを排除する策動がすすめられるようになった。
わたしの協会活動の終りの段階では、中国でも現代化をめぐって、指導者の交替があり、周恩来総理。朱徳将軍、毛沢東主席があいついで逝去された。また林彪・江青反革命事件の裁判やら、新らしい経済政策などが打ち出されている。世界的に見廻わしてみても、ソ連のありかたやポーランド問題など、革命によって期待のなかから生まれた新らしい社会が、どういう社会になるかわからなくなった。折もおり、わたしの健康に異変が起こった。協会をやめる時期が来たのを知った。すべてものごとは、始めあれば終りあり、である。
(この節は一九八○年八月執筆)