(二)六○年安保のころ

 中断から再開へ

 一九五七年二月、岸内閣が成立した。岸首相は蒋介石に親書を出し、第四次日中貿易協定を破壊し、台湾で蒋介石の大陸反攻の支持を声明し、長崎国旗事件を惹き起こし、日米安全保障条約批准を自民党で強行決定し、日中友好協会の大会に出席する中日友好協会代表の入国ビザを出さず、NBC放送で中国を侵略者と断定するなど、歴代首相のなかでも、もっとも反中国色の強い首相であった。

 戦争が終っても日本と中国は国交が回復されず、敵対関係がつづいていたにもかかわらず、民間の努力によって、両国民間交流は、阻まれることなく次第に活発になっていた。

 それが一九五八年五月、長崎での中国国旗侮辱事件によって、日中貿易は文化交流とともに中断し、漁業協定は中国側に延期を拒否され、日中友好交流は断絶した。わたしどもは、この事態にたいして、国内では、「日中関係緊急事態打開国民大会」を開き、一方ではちょうど帰国船に乗船代表として乗込んだわたしは、この緊急事態打開のため、中国側代表と会談して、政治三原則をあらためて明示された。帰国後、八月の協会第八回全国大会では、岸政府とアメリカの中国敵視政策に反対してたたかう方針を決定した。また一九五九年三月、社会党第二次訪中使節団団長の浅沼稲次郎氏は北京における講演で、「米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」であると喝破した。その後間もなく、日本全国に新安保条約の批准に反対する運動が澎湃として起こり、第二派実力行使で、阻止勢力が国会を包囲したとき、樺美智子さんが官憲の手で殺された。この運動の高まりのなかで、一九六〇年六月十六日、東西貿易四団体は「安保阻止、国会即時解散、岸退陣要求東西貿易関係業者大会」を開き、一週間後の二十三日、岸首相は辞任を表明し岸内閣は倒壊した。

 この日本人民の闘争に呼応して、中国の周恩来総理は貿易三原則を提示したので日中友好貿易がはじまり、「L・T貿易も発足した。また日中民間交流を全面的に発展させるために、一九六三年十月、中国日本友好協会が成立し 翌六四年一月、毛沢東主席は、「日本人民の反米闘争を支持する談話」を発表した。

 こうして、一九六三年から七年にかけて、中国では、文革騒然たるころであったにもかかわらず、各種の中国展が開かれ、第二次中国紅十字会代表団が来日し、松山バレー団(清水正夫団長、現全国本部理事長)が訪中公演をし、日中青年友好大交流がおこなわれるなど、日中友好交流は再開され、着実に発展しつつあった。

(この項は、一九八二年十月執筆)

 どちらが奇人か

 「諸行有常、是生々法。生々善成、働生為楽」。これは、さきに述べたとおり、父がわたしども兄弟たちに書きあたえた書である。わたしはこの書よりも、言葉の内容が父の世界観を現わしているので、興味をもってよく覚えている。

 父の世界観をもっを詳しく説明したものとしては、『吾が信仰、人生行路の案内』(前出)という小冊子がある。ひとくちでいえばスビノザーの自然神論に似通ったものであり、唯物論のような一面があって、わたしの興味をひくのである。

 父の土地復権論もまたこの世界観に基づいている。父は財産を人造物と天造物にわげて、人造物とは人力すなわち人間の労働によって産出された財産であり、これにたいする権利を所有権として、生産者の所有に帰せしめる。これに反し天造物とは天力すなわち自然に造成されたものであって、これにたいする権利を享有権とし、空気や水とおなじように、天造物である土地にたいする享有権は人間みな平等でなくてはならぬとする。すなわち天賦の人権であり、生存のために必要な基本的人権のひとつであるとする(前出『土地均亨人類の大権』明治三十八年九月初阪、昭和二年十月一日三版発行)。

 父は、「人ハ是非栄辱苦楽禍福生死等斯ク錯雑變現スル此世ニ於テ人生ハ如何ナルモノナルカ人ハ何ノ為メ生レ來タカ如何二身ヲ処スべキカ何レ二帰着スルカ即チ吾ガ生涯ノ日指スべキ真正ノ行路ハ如何ト云フコトノ見留メガナイナラバ恰モ暗夜二燈光モ羅針盤モ持タズ荒漠タル山海二何處ノ目當モナク旅行スルヤウナモノデ能ク能ク思へバ實二生涯ノ大憂デアル予ハ人心付キシ頃ヨリ此大憂ニ打タレ深キ思念二沈ミ此大憂ヲ解除スルコソ我が生涯ノ最大要件ナリト認メ」、「この大憂問題ガ解了セネバ此世二真面目二為スコトモ良心楽シイコトモナイ左レバ此問題ノ解決ガ自心二付ク迄ハ何事二モ着手セマイト考究思索二従事スルコト几ソ十有五年明治二十九年ノ秋漸ク自己ノ心ニ満足スル丈ケノ解決二達シタ」(前出『吾が信仰、人生行路之案内』一〜二頁)のである。

 遺伝だか、なんだかわからないが、親子の相似というものは驚くべきもので、わたしも青年時代にこの問題で悩みつづけた。高等学校を卒業して大学にすすむとき、どこの何大学ということよりも、何学部にはいり何を勉強するかが問題であった。高等学校の先生や、親族の先輩に相談してみたがなかなか決まらず、おおぜいの級友たちに附和雷同して、試験を受けて入学を許される学部を選ぶという、ぶざまな選択をやったものである。

 学生時代に、たしか原嘉道という先生がいた。これはひとから聞いた話しであるが、ある会議の席上、原教授は自己の主張を滔とおと弁じたてた。その弁説が終ったところで、同席の一教授がすかさず、「それはほんとのハラカドウか」と半畳をいれた。それから十分も経ったあと、原教授が大声をあげて笑い出したという。同席者が訝かったのも道理、原教授は、さきほどの半畳のしやれの意味に、ようやく気が付いたのである。人間の能力にはいろいろある。おおざっぱにいっても、体力、運動神経、容姿、精神的能カなど。そしてその精神的能力のなかでも記憶カ、推理カ、頭の回転、連想力などなどがある。原教授のエピソードからすれば、原教授の頭脳の回転はあまりよくなかったといえる。ところが、わたしの頭の回転の悪さ加減は、原教授どころのものではないと、しみじみ感じている。

 しかし、あえて自己弁護をするならば、これは理論の一貫性、系統性を求めるところからきている。自然界、人間社会のもろもろの事物、現象の法則性を追求する努力のなかから生まれる性行である。そこには一度もった認識を容易に捨てきらない、保守的な要素もある。できるだけ事物の本質を知りたいとの願いから、新らしい認識に移ることに手間暇がかかり進歩がおそい。結局人生に処する方法を、ほば人生を終るころになって始めて体得する。大器ではないが晩成である。こういう人間にとって、七〇年、八〇年という一生は短か過ぎる。父が死の直前に、「まだやらねばならぬことが沢山ある――死にたくない」といった意味を、その子はいまにして、ようやく理解した気がする。

 つまり、さきに述べたように、父もわたしも、人間生まれて何を目ざして生きるのか、生き甲斐のあるライフ・ワークは何がという問題の解決に、あまり時間をつぶしすぎて、目的実現の手段がどんなに大切であるかを軽視したのである。もっとも、ぃかに目的を確立するために夢中であっても、生活のうえでの、せっぱつまった必要事項は、何をさておいても解決せざるをえない。ただしそれは、喉が喝けば水を求め、腹が減れば食を求め、寒にあっては暖を求めるほどの範囲のことであって、人生の目的を達するための手段ではなかった。父も子も、叔父たちも――宮崎一家の者が、あげてそうであった。

 このころのこと、友人からこんな話しを聞いた。その友人は、ちょいちょい行く飲み屋で、時どき顔をあわせるひとりの老人と言葉を交わすようになり、その老人が、

 「貴方は、なにか中国問題に携わっておられるようにお見受けするが――」

 友人がそうだと答えると、老人は、

 「わたしの学友で宮崎というのが、やはり中国問題をやっているが、御存知ありませんか」というので、友人は、

 「ああ、宮崎さんなら知っていますよ」と答えた。そして、

 「あの男は、まったく奇人ですね」といったら、老人は、

 「別に奇人とは思いませんが」というので、

 「いや悪い意味での奇人というのではありません。しかし僅かの給料しか貰えない日中友好協会なんぞの仕事に一生打ち込んで余念がないのは、一種の奇人ではないでしょうか」と友人が説明したとのことであった。

 しかしいかに頭の回転がおそいといっても、八〇年もこの国の社会に生きていると、「万事金の世の中」というその実相を知らないわけにはいかない。政府にたいする意見を述べるのには政治家になるのが有利である。政治家とは代議士のことである。政治的意見を強力に主張したくても、金が無ければ代議士にはなれない。直接政府にたいしてでなくても、社会にたいして訴える方法もある。しかし沢山の読者の購読欲をそそるような内容のものでなければ、出版社が引受けない。生活と離れて文筆に専念するには、一定の生活資金が保障されていなければならない。

 わたしがいい歳になっても、このように実社会にたいする常識を欠いているのは、宮崎家という環境で育ったのと、社会主義中国の影響によるものと考えられる。いや人のいう中国かぶれだからであろう。社会主義中国では、まじめに働きさえすれば、生活に窮することはないということである。つまり現実には、日本の社会に住みながら、頭のなかでは中国の社会に住んでいるような錯覚に陥っているのであろう。ところが奇妙なことには、高遠なる理想を実現するためには欠かせない当面の具体的手段、物質がいかに重要であるかを、わたしに悟らせてくれたのは、中国の現代化運動であった。

 ちなみに、わたしはごく最近、驚くべき発見をした。それは『週刊文春』(一九八〇年一月十日号)に載った、例の航空機売込み事件の立役者、日商岩井の海部八郎前副社長の述懐記事を読んでのことである。わたしはこれを読んで、まったく自分の想像を絶した社会が、いまの日本にあることを初めて知った。つまり人生のすべては金儲けにあるということを信念とした人びとの社会の発見であった。なるほど海部氏の行為は、かれ自身の直接の利益をはかるものではなく、法律上危い橋を渡ってまでも会社の利益のために努力したという自己犠牲的と見える一面もあるが、会社の発展は自己の立場の発展であり、会社から離れたもっと大きな立場からすれば、やはり利己主義につながる。

 わたしにいわせてもらえれば、これこそ奇人だといいたいところである。いやしかし、わたしは、そのほかに相撲や野球が嫌いなどの偏向がある。やはり奇人なのは、私のほうかも知れない。

(この項、一九八〇年十月執筆)

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