(三)騒然たる文化大革命

 「日共」との訣別

 一九六六(昭和四十一)年は孫中山先生生誕百周年にあたるので、日中友好協会では、東京でも記念祭を開催しようという話しがもちあがり、わたしはその資料の入手のために中国を訪問した。わたしが、たしか北京に居るあいだに、「日本共産党」の宮本顕治代表団が倒着したというので、中国側からの案内により、その歓迎会に出席した。この団は、べトナムと朝鮮を訪問したあと、彭真氏を団長とする中国共産党代表団と会談し共同声明文案を作成したうえ、上海まで行き、当時上海に滞在していた毛沢東主席と会見し、共同声明文案の比准を求めたが、拒否された。共同声明文案の内容は詳にしないが、アメリカ帝国主義のべトナム侵略にたいし、中、ソを含めた共同戦線をつくって反対するということに、毛主席が同意しなかったのだといわれている。すでに中ソ共産党のイデオロギーの相違が公然化していたのだから、ソ連にたいする評価が違っていたのであろう。これをひとつの契機として、日中両共産党は絶縁することとなった。

 このこと以来、日中友好協会は、「日共」の不当な干渉を受け、友好運動をすすめるうえで「日共」との確執が強まり、協公内部における「日共」系分子とその他の会員との対立が生じた。七月十七日、協会第十一回常任理事会は、「日共」中央に盲従する常任理事の反対を多数が反駁して、第二回青年友好大交流への参加を決定した。参加団体数五十一団体、代表数四百八十人にも達したが、「日共」は陰に陽に妨害し、政府も旅券発給を拒否して、実現は困難をきわめた。おりから来日していた天津歌舞団公演、北九州・名古屋中国経済貿易展、『人民中国』・『北京周報』・『中国画報』等中国三誌普及活動等も同様の妨害にあった。

 このような情況のもとで、一九六六年九月二十六日、岩井章、伊膝武雄、海野晋吉、大田薫、大谷螢潤、大内兵衛、兼田富太郎、亀井勝一郎、河崎なつ、木村伊兵衛、黒田寿男、金子二郎、小林義雄、小林雄一、佐々木更三、坂本徳松、白石凡、末川博、杉村春子、千田是也、高野実、田中寿美子、土岐善麿、中島健蔵、原彪、堀井利勝、深尾須磨子、牧野内武人、松岡洋子、宮崎世民、三島一、久市白落実氏等文化、政治、労働界の著名士三十二氏による声明「内外の危機に際し、再び日中友好の促進を国民に訴える」を発表した。この声明を背景として、協会は中国の第十七回国慶節に代表団を送り、十月十二日、「日本中国友好協会代表団と中国日本友好協会代表団との共同声明」に調印した。帰国後、十月二十五日に開かれた常任理事会は、この共同声明をめぐって紛糾し、「日共」分子の妨害によって破壊された。そこで翌二十六日、協会は、「日共」分子を排除して、全国組織を改組し、日中友好協会(正統)の旗を掲げた。これにつづいて、善隣学生会館事件等、数かずの「日共」の反中国策動とたたかう日びを迎えることとなった。

 目的と手段

 中国は、広大な中国全土にわたり、五十に余る民族と十億という人民を結集して、封建勢力を倒し、諸外国の帝国主義・植民地主義に支配された半植民地状態の旧中国のなかから、中華人民共和国という新らしい社会主義国家を建設した。

 当時、中国人民は、意気天を衝くの概があった。そのころ、全民族、全人民の敬仰してやまない毛沢東主席は、青年の将来に期待して、「世界はきみたちのものであり、また、われわれのものでもある。しかし、結局はきみたちのものである。きみたち青年は、午前八時、九時の太陽のように、生気はつらつとしており、まさに、旺盛な時期にある。希望はきみたちにかけられている」(「モスクワで中国の留学生、実習生と会見したときの講話」一九五七年十一月十七日)と激励した。わたしは当時、新中国そのものが、まさに午前八時の太陽であると思った。ある年中国を旅行中、飛行機のなかでのつれづれのままに、年若い中国人のスチュワーデスを呼びとめて話しをした。「貴女は、将来何になるつもりか」というわたしらの質問にたいして、かの女は何の躊躇もなく、「わたしは中国の革命事業のためなら、何でもやって働きます。中国の革命事業が成功したら、世界人民の解放のためにたたかいます」と答えた。たとえ教えこまれた言葉であったとしても、信念に満ちた言葉であった。

 毛主席は、新中国の成立までは、専ら高邁なる革命の理想を説いて中国人民を率いてきたが、新中国成立後は、社会主義国家建設のため、国防、対外方針、経済建設、思想・文化の変革にも力を注いだ。まだ中・ソ間の対立は始まらず、両国は一枚岩の兄弟国であった。億万の中国人民の目は、どちらかといえば、理想社会の実現という革命の目標に集中していた。この中国人民の天を衝く意気は、当然、世界中に燃えひろがった、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸民族の独立闘争を激励した。

 スターリンが死んでフルシチョフが指導権をとると、通説によれば一九六〇年代になって、中・ソ両共産党のあいだに、国際共産主義運動をめぐってイデオロギーの相違が生じ、それが国家間の関係にまで波及したという。しかしソ連は中国にたいし、数かずの背信行為をおこなった。また両国は、対外政策および国内経済政策の面でも、意見の相違が顕著になってきた。ちなみに両国の矛盾対立は、イデオロギーの相違から起きたのか、それとも国家の政策の違いから起きたのかという問題は、いまもって興味のある問題である。しかしイデオロギーは、客観的な国家政策に基づく場合が多い反面、国家の政治はその指導者のイデオロギーの傾向を反映するものである。これもまた弁証法的関係というほかはない。

 とにかく、中国共産党にとって政権獲得までは、ソ連の先例にしたがって武装闘争をおこなって勝利した。毛主席は、「鉄砲から政権がうまれる」(「戦争と戦略の問題」『毛沢東選集』第二巻)といっている。しかし政権をとり、これをどのようにして社会主義の強国に育てあげるかについては、それぞれ国情がちがい、緩急よろしぎをえなげればならないのだから、ソ連のあとを追うだけではやっていげない。のみならずソ連の政治は、次第に大方向をはずれてゆく危険が現われた。中国はこれを現代修正主義と呼んだ。いずれにしても、中ソの対立は事実であり、これは一体どこから起こったのか、これはいまひとつの興味ある研究問題である。

 中ソ対立が公然化して間もなくのころである。日本から約十五名の社会党の県・市議会議員からなる訪中団が、北京で中国との会談をおこなった。そのときちょうど北京に居あわせたわたしは、その団長さんが是非会って相談したいことがあるというので、かれらのホテルに出向いたところ、ちょうど中国側との会談中だというので、その会場にとおされ、否応なしに傍聴することになった。そこで問題になっているのは、やはり中ソ問題であった。中国側のC氏は、いろいろ実例を挙げて、ソ連現代修正主義がいかに信義に背き、いかに卑劣であるかを説明していた。すると日本の代表団の団員のひとりが立ちあがって、「現代修正主義の悪いことは、それで十分わかりました。ただわからないのは、レー二ンに率いられたボルシェビキ党が、どうして現代修正主義に変質したのかということです。そのところをいま一度、御説明ください」といった。もっともな質問であり、わたしはC氏が、これにどう答えるか固唾を飲んで耳を傾けた。ところがC氏が、この質問にたいして明快な説明をしなかったので、わたしはまったくがっかりしてしまった。この問題に正しい分析をくわえて明快な回答をあたえることは、この会談だけでなく、広く思想問題として非常に重要であると考えていたからだ。ところがその後もずっと、明快な回答にはお目にかからなかった。最近では、毛主席が老衰して判断力を欠き、国内では階級闘争が主要矛盾であるという誤りを犯したといわれる。それでは毛主席の判断は、ソ連についても誤っていたかというと、そうでもないようだ。ソ連にたいする中国共産党の態度は、依然として変わっていない。

 当時わたしは、文化大革命の原因について、自分なりにこう考えた。中国はもちろん、ソ連も誕生してまだ日が浅いいわば若い社会主義の国であり、両方とも社会主義の道は未知であるし、旧社会の風習、文化などが十分改まっていない。そのうえ、世界で社会主義国というのはまだ少数で、まわりは資本主義の花盛りである。たとえていうなら、内には燃え残りの焼けぼっくいがあり、外は資本主義の烈火でかこまれている状態であり、何か手を打たないことには、内なる焼けぼっくいに火がつくのは、むしろ当然ではなかろうか。それから間もなくして、中国で文化大革命が始まった。これはつまり、毛沢東主席が、反修防修の手を打って、その燃えかすに水をかけたのだというのが、一番わかりやすい説明ではないかと。

 また角度を変えて弁証法的に考えれば、ある事業の目的と手段を、事物の相対立する両側面とみる。いかなる目的も手段なくしては実現せず、いかなる手段も目的なくして成功するはずはない。目的と手段はこのように互いに連関して、その存立が互いに他に依拠しあっている。けれども両者は全然別個の存在であり、互いに対立している。あるときは激しく闘争もする。これを社会主義社会にあてはめるなら、目的は高邁なるがゆえに、これの実現のための実践すなはち手段は、時と所、それに自分の立場、主体的条件の実情に、適確に相応する、客観的な精密なものでなければならない。また同じ方法でも時がちがい場所が変われば、何の役にもたたない。役にたたないばかりか、かえって妨害になる。そのような手段・方法に専念していると、人間というものは、とかく高邁な目標を見失うものである。これに反して適切な手段を講ずることなく、ただ高邁な目標ばかりに目をとられていては、足もとが崩れてしまう。ことに社会が複雑になると、目標追求に専念する者と、手段対策に専念する者とが、それぞれ仕事を分担し、ちがった者になることが避けられない。目的と手段、いわゆる紅と専との関係を弁証法的にとらえ、紅でもあり専でもあるということは、言うは易く実践は困難である。

 わたしのような、一外人にとってすら、問題は中国はどうなるかではなくて、中国をどうするかである。そんなことをいう資格がわたしにないとすれば、せめて中国人民が、紅と専とを誤たず二つながら踏まえて、立派な社会主義の富強国となることを希望する。中国の主人公である中国人自身にとっては、なおさら問題は重大であろう。

(この項は 一九八〇年八月執筆)

 文革とわたし

 すでに述べたとおり、わたしは中学時代に、高山樗牛などを読み耽ったこがひとつのきっつかけとなって、宇宙や人生を神秘的に考えるようになり、その神秘性を解明しようとして、ますます神秘の虜となり、長らくそこから脱け出すことができなかった。しかし日本の社会にもようやく民主主義が目醒め、労働者や農民の闘争が勃発して、社会主義の言論が声高となり、社会主義の団体や政党が生まれ始め、このような風潮カ わたしにも影響をあたえた。

 また、わたしの親族には、キリスト教信者が比較的多かったのだが、どうしたことか、父だけはキリスト教も仏教も信仰せず、ただひたすらに社会問題に頭を突っこんだ。具体的には土地復権論なるものを唱導したのであるが、それはけっしてたんなる農政問題としてではなく、社会問題としてとり組んだのである。

 こうしてわたしは、一方からは宗教や観念哲学に捕えられ、他の一方からは科学的な社会革新の問題に迫られたのである。しかし結局、社会問題はまず哲学問題を解決したうえでの仕事だということで、あい変わらず観念哲堂の迷路をさまようばかりであった。そのために、カントやニーチェなどを理解しようとして、随分長い道草を食い無駄骨を折った。

 わたしが、このような迷路からようやく脱れ出ることができたのは、なんと大学を卒業して実生活にはいり 、自ら生計の責任を負うようになってからであった。わたしは比較的早く結婚し家庭をもったが、そのころわたしの家の生計は、父がライフ・ワークである土地復権運動のために、先祖伝来の田畑を食いつぶした結果、大変苦しくなり、もはや学生時代のような親の脛噛りは許されなくなった。大学を出たころは、資本主義諸国の周期的な恐慌が、わが国にも襲いかかり、銀行のとりつけ、企業の倒産、失業者増大のため一般国民の生活は、いちじるしく苦しくなり、労働者のストライキ、米騒動などで、世は騒然となってきた。独占資本と軍国義が結託して 中国侵略の企てを起こそうとする直前であった。

 わたしは、大学を卒業すると、兵役にとられたり、妻子を養うために心にそまぬ仕事に従事せざるをえなかった。しかし、このような自立生活のなかで、初めて実社会がいかなるものであるかを知り、世の中を見る目も変わってぎた。たまたまディーツゲンの「認識論」を読んで、これまでの実在とかロゴスなどという観念哲学の混迷から初めて解放されたような感じを覚えた。そしてマルクス、エンゲルスの著作が何となく理解しやすく、魅力的になってきた。

 わたしが、このような精神状態にあったときに、さきに述べたとおり、わたしに唯物論的な影響をあたえてくれた父から、「利己心は人間の本能である」と聞かされ、人間が利己心のためでなければ働かず、しかも利己心が人間の本能であるとするならば、マルクスたちの目ざす理想の社会、共産主義社会の実現は、結局不可能ではないかという疑問が、一瞬、わたしの頭のなかを横切った。そしてわたしは、その問題の説明を人に求めるでもなく、マルクス、エンゲルスの著書などについてさらに勉強するでもなく、その他のいかなる方法でも、この問題を追求することをしなかったのである。

 ところが、それから三、四十年経った、一九六六年、中国のプロレタリア文化大革命というものに遭遇して、はしなくも、この問題を再び思い出すこととなった。

 文化大革命とは、毛沢東が、ソ連の修正主義化を目前にし、またこれと気脈を通ずる分子が国内にも発生する気配に直面して、長年かけて多大の犠牲を払ってかちとった革命の成果を、むざむざ台無しにすることを防ぐために、最後の手段として起こした思想革命であるといわれた。そして社会主義を蝕む資本主義的諸悪の根源は利己心であると考えた。そこで毛沢東は、「破私立公」や「闘私批修」のスローガンを唱導したのである。

 中国は、初歩的な社会主義化によって、経済的土台を社会主義的に改めることはできたが、上部の観念分野は、改革された経済構造に相応しくない状態のままになっている。人間の観念は、経済土台を反映してそのうえに生育するものであるが、社会主義初歩の段階では、旧時代の観念がそのまま残存していて、これが社会風潮の社会主義化の進展の阻害要因となると考えた。あるとき、わたしどもが郭沫若氏と懇談したとき、かれは、「下が洋装のスカートなの幻に、頭が丸髷ではおかしいでしょう。やはり頭も洋髪にしなければ……」と、ユーモアたっぷりに話してくれた。

 その上部構造のなかに含まれている利己心について、毛沢東は文革のなかで、利己心は数千年にわたる私有財産制という経済土台のうえに生育し定着した上部構造、観念であり、断じて人間の本能というべきものではない。だから、経済土台、基礎構造が変われば、上部構造としての観念も改めることが可能であると論断した。さらにわたしがこれまでに理解していたように、経済的土台が変われば、おのずから上部構造が変化するというのは早合点で、上部構造の下部構造にたいする反作用ということがあり、旧いイデオロギーが逆に新らしい経済的土台を崩して、折角の新社会を駄目にすることもあると教えた。このように考えれば、ソ連共産党指導部が修正主義に陥ったのは、社会主義の敵を専ら外部からの反革命に絞り、革命の主体の内部に巣食う反革命を、ないがしろにしたせいであるということがわかる。

 したがって毛沢東は、ソ連の例を目前にして、修正主義の芽を摘みとる必要を感じ、現に中国社会に残存する旧社会の風俗、習慣、あらゆる思想・文化を一掃するために、自から文革を提起し、自から指導したということであった。

 しかし文革には、このような文革の理念のほかに、多分に政治的、権力闘争的要素もあった。それはすでに中国共産党や政府機構のなかに、ソ連と通謀する者、あるいは中国の社会主義路線に異論を唱える者があったかに聞いたからである。これらを即刻摘発、打倒しなければならないということが、一層文革の緊急性に拍車をかけ、複雑性をくわえたという事情もある。だから当時、文革は一面では政治革命の様相を呈した。だから中国では、現実の修正主義路線にたいする闘争を反修、将来のため修正主義の芽を摘みとることを防修といういいかたをしていた。

 文革は一九六六年から始まり、林彪のクーデター事件を経て「四人組」粉砕に至るまで約十年間つづいたが、この十年のおよそ前半が毛沢東の指導した文革であって、後半は「四人組」が毛沢東の病気を好機とし、野心をもって文革を悪用したものであったように理解される。

 一九六〇年代の初め、対ソイデオロギー闘争が始まるころから、文革は農村社会主義運動というかたちをとりながら、すでにその胎動があった。そして文革の嵐の一番激しい時期は六六年から五、六年間であろう。わたしはその間に何回となく訪中して、紅衛兵の大群によって町という町、壁という壁に張りめぐらされた大字報、なり振りかまわず寝食も忘れたような青年、学生の渦と激動を目撃した。まるで吹きすさぶ暴風雨のような情況であった。

 当時、毛主席は、一時期革命の主人公になった紅衛兵に向かって、文革の目的は二つある。現に修正主義に染まった輩を打倒することは、そのひとつであるが、いまひとつのもっと重大な敵は、諸君の頭のなかにあって革命の進展を妨げる。この敵とたたかうことは、大敵アメリカ帝国主義とたたかうより、一層困難であり、このような文革を、将来二回、三回、四回、五回やっても、まだ安心はできないと説いた。

 わたしは、文革の意義が次第に自分なりにわかってくるにしたがい、かつて一旦は問題として意識したが、その後未解決のままやりすごしていた、人間の利己心の問題をそのままにして、共産主義社会の実現ができるかどうかという、あの大問題の解決に、中国はいま正面からとり組んでいるのだと考えた。それが文革だとわたしは思った。

 わたしが中国の文革によって、新らしく学びえたことのひとつは、上部構造は基礎構造に照応して人間の観念に反映するものであるから、生産の基礎構造を変革するには、基礎構造の変革だけでなく、基礎構造を変革したうえで、さらに上部構造そのものをも変革する努カが必要であるということである。すなわち基礎構造さえ変革すれば、上部構造の変革は別段の努力をしなくても、自然に変わるものであるかのように考えていた従来の理解を、修正せざるをえなくなったのである。中国の文革は、この上部構造変革の努力であったことを、自分なりに理解ができた。

 一九六六年十一月三日付の『解放軍報』の社説に、つぎのようなことが書かれていた。「新社会は新人が来て創造しなければならない。ある意味では、共産主義は『公』のため『私』を捨てることである。われわれは、一心もって公のために尽す共産上義的新人を養成しなければならない。それは毛主席が、われわれに学習するように呼びかけている、張思徳、ベチューン、劉胡蘭、雷鋒などのような人である」。そのころ、「破私立公」、「闘私批修」などの言葉が流行し、また雷鋒など、わが身を犠牲にして人命を救った人びとが、新らしい社会の人間像として顕彰、宣伝されたのであった。

 さきにも述べたように、毛主席は、利己心は、数千年来つづいた人問社会の私有財産制という基礎構造のうえに生育した一種の観念であり、断じて人間の本能ではない。だから基礎構造を変革し、旧社会の上部構造をとり除きそのうえで新らしい上部構造を植えつける努力をつづければ、そのなかで、人問から利己心をとり除くことができる。しかし観念の変革は、経済、政治組織など生産関係の変革とちがって、立法とか行政とかの人為的手段、外部の力で、短期間に実効をあげることはできず、相当長い期間連続した努カが必要であるというのである。

 古来、釈迦とかキリストとか幾人かの宗教家、聖者の人間改造の努力のほとんどが、この利己心からの人間の解放を目ざしたものであるけれども、成功しなかったのは、ただ観念の分野における努力のみにとどまり、経済の基礎構造の変革のうえに立たなかったからであるとわたしは考えた。

 そのうえ、利己心というと簡単のようだが、現実社会では利己心について、いろいろの問題がある。まず第一の例が、いわゆる団体利己主義の場合である。ある個人が自分の属する政党や団体や会社のため、自分自身を忘れて働くが、それらの団体間には激しい競争があり、それぞれ他の犠牲のうえに自己の繁栄を築こうとしている。それは当今、営利会社の活動によく見受けるところであり、これが利己心であるかどうか、わが国ではいま問題となっている。明白なのは、大きな社会の利益、たとえば世界平和と、個人の栄誉(たとえば金メダル)と二つの選択のなかで、後者を選ぶならば、それは利己主義である。ところが、自分の所属する国家、民族、階層のため献身するのは、利己心でないとするのが常識である。このように見てくると、利己と公共への奉仕(自己犠牲)の区切りがわからなくなってくる。これはちょうど、南部鉄びんの地金と湯垢の関係のようなものではないか。だから場合によっては、利己を公共への奉仕と強弁することができる。また利己のない無私といっても、自分のことを自分でやらなくて、専ら他力本願でもこまる。自分に私心がないという信念の人は、自己の保身が大公につうずる。いわゆる正当防衛の法理はそこから生まれる。結局のところ人間には両側面があり、利己一点張りは行きつくところ帝国主義となり、自己没却では無責任となる。

 わたしには、人間の利己心が民主主義社会のなかで、たとえ文革のようなことをおこなっても、はたして消滅することができるかどうかは、いまなお疑問である。そこでわたしは、利己心を除きうるかどうかの設問をやめようと考える。人間には利己心のみでなく、利他心もある。利他心の発動は破私立公の源泉である。この問題については、形而上学的にではなく、長い時間をかげて、利他心を無限に拡大し利己心を無限に制限してゆく絶えざる努方を積み重ねることにより、利己心は次第に消滅の方向にすすみ、わたしどもは、次第に理想社会に近づくことができるであろうと考えるほかはあるまい。

 ともかくわたしは、文化大革命をとおして、毛沢東の高邁なる慧眼と、その理想に向かう真執で倦むことなき努力には、敬服せざるをえなかった。ただ気にかかることは、この毛沢東が、共産主義社会という遠大なる理想実現のために着手した、中国人民十億の人間革命が、現代化を当面の最重要課題としてとりあげることによって、一時的にもせよ中断し、毛沢東なきあと、誰れがふたたびこの問題をとりあげて、あの高邁なる理想実現への前進をつづけるかということである。

(この項は一九八〇年八月四日執筆)

 文革と日中友好運動

 中国では、共産党が結成されて以来、四人組事件に至るまで、党内の大きな路線闘争が十一回もあったという。 日本で日中友好運動をやっていると、このような事件が起こるたびに、大きな当惑を経験したものである。中国では革命や国家にとって路線闘争は死活の問題であり、これと比べて日本の日中友好運動家の当惑などは、ものの数ではないだろうけれども、わたしどもにしてみれば、心が痛んだ。 文化大革命が起こると、いくつかの影響が現われた。

 ひとつは、いわゆる中国かぶれの一部の者が、両国の社会体制の相違などにはお構いなしに、全面的にその猿真似をやらかし、やれ実権派だ、走資派だ、造反だ、三角帽だ、大衆闘争だ、大字報だとさわぎたてたことだった。

 ふたつには、かねて中国を敵視していた人びとが、これ幸いと悪宣伝の好材料として書きたてたことだった。「四人組」が「人民日報」の指導権まで手中に収めていたため、わたしども外国人には、ことの真相がさっぱりわからず、一般の日本人も中国敵視宣伝の影響をうけ、中国という国では、しょっちゅう何かが起こっている。これから先も何が起こるかわからない。こんな不安定な国との友好などとんでもない、ということになりがちだった。

 三つめは、協会内に日共(左派)の影響力が強まり、それに反発した社会党系会員とのあいだで対立が深まり、ついに当時、「科野ビル派」、「諸潮流」と呼ばれた二派に分裂した。これにより、協会の方針と諸活動は尖鋭となり、社会的に、大衆性を失った過激集団のように見られるようになってしまった。

 しかしなかでも大きな影響をうけたのは、四つめに、「日共」が反中国に変質し、協会と訣別せざるをえなくなったことであった。

 文革が日中友好運動にあたえた影響が生みだした、こうした問題にたいし、わたし自身どう対応すべきか、さんざん考え苦しんだ。中国はまだ革命をやっている。しかもその革命路線は前人未踏である。その革命の道は決して平坦ではなく、途上に幾多の波乱があって然るべきだ。むしろ波乱がないのがおかしい、というぐらいでは到底納得がえられない。中国人民はたびたびの政変で鍛えられている。ことに文革をつうじて全人民が毛沢東思想を体得した。いかなる困難に直面しても、いざとなれば人民自身がこれを克服する。こんな説明でもまだ十分ではない。とすればほかにどのような納得のいく説明があるのだろうか。

 このようにわたしが思い悩んだのは、一九六〇年代から七〇年代にかけて、中国にも日本にも、異常な重大事件が連続して発生したからである。中国では、それまで一枚岩の兄弟国といっていたソ連とのあいだに、イデオロギーじょうの相違にまず端を発し、それが次第に公然たる対立論争となり、国家関係にまで発展して、六九年には珍宝島事件が発生し、七六年には周、朱、毛三氏が亡くなり、唐山の大地震のために付近一帯に壊滅的な被害を蒙った。中国人がいうとおり、この年は並みなみならぬ年であった。地震や新中国建国の元勲があいついで逝去したのは、自然現象であるが、文化大革命は人間社会の出来事であり、中国から歴史的に感化をうけつづけてきた日本のことであるから、それが日本人民に強力な影響をあたえずにはおかなかった。ことに日中友好運動をやっているわたしどもには、その積極的、消極的影響は深刻であった。

 「日共」は一九一六六年から、さきに述べたとおり、やつぎばやに反中国攻撃をかけてきた。第一次青年友好大交流に参加した数百名の青年のなかの「日共」党員も帰国の際は、中国側青年と泣いて、来年の第二次青年交流での再会を約して別れたのに、同年、日中両共産党の共同声明が不成立に終ると、それを根にもって豹変し、六七年の第二次青年交流に反対するとは、常識では理解でぎないことだった。「日共」指導部ならびにその指示に従う協会内の「日共」分子の反対をはねのけて、第二次日中青年交流への参加を決定すると、協会内には、反中国の「日共」党員グループと友好グループの二派が出来て、反中国グループに所属する事務局員は、友好グループの幹部の行動を尾行監視するなどのスパイ活動をおこなった。このような内部分裂は十月二十六日、日中友好協会(正統)を発足するまでつづいた。

 協会(正統)発足後、反中国「日共」との対立は、ますます激化した揚げ句、一九六七年二月二十八日、東京都文京区にある善隣学生会館の中国人学生が襲撃、暴行をくわえられるまでに発展した。わたしどもは、この事件によって多数の負傷者を出し、その他の被害をこうむった、在日中国人の大きな被害を、到底看過することがでぎず、在日中国人を支援するための中心的な役割りを引受けた。この事件の顛末をわたしがここに詳述するかわりに、日本の代表的な学者、芸術家、経済人、評論家、宗教家三十五氏の「中国人学生襲撃事件を糾弾する」というアピールを紹介する。

 中国人学生襲撃事件を糾弾する

 去る二月二十八日の夜、東京都文京区の善隣学生会館の一階に事務所を置く日中友好協会の職員(「日共」分子)が、同会館学生寮の壁新聞を破り、それに抗議した中国人学生の一人を欧打するという事件が起りました。 それがきっかけとなって、同夜おそく、日本共産党、日本民主青年同盟の自動車を先頭に七十名が押しかけて暴行を働き、さらに三月一日夜、数百名が会館を包囲しました。三月二日には、早朝から午後四時にかげて、日本共産党の中央幹部の指導の下に、数百名が会館を包囲し、鉄カブトやこん棒で武装した一隊がなだれ込んで、これを阻止しようとした中国人学生と応援の協会を中心とした日本人や華僑の人びとに襲いかかり、重傷者七名を含む多数の負傷者を出すという不詳事件にまで発展しました。

 財団法人善隣学生会館は、日中文化の交流を図るため、在日中国人学生に諸般の便宜を供与し、日中親善の増進に寄与することを目的とする施設であります。

 そのような会館においてこのような暴行事件を起したことは、正常な日中友好を阻害するだけでなく、国際感覚を欠いた所業で、心ある日本人であれば、イデオロギーのいかんを問わずだれでも、その非常識に驚き憤激せざるを得ないでしょう。

 しかも日中友好、日中親善を口にしている団体と政党のひとびとによって、計画的とも疑わせる暴行がなされたのであります。さらにこれらのひとびとが、軍国主義時代に使われた中国人べっ視の侮辱的言葉を吐くぱかりか、何らの自衛手段をもたない素手の相手に、武装した集団襲撃をかけたことは、どのように理屈をつけようとも、ひとを納得させることはできますまい。

 暴力をもって相手を圧倒することは、日本人のあいだにおいても、厳に戒しめなげればならないことです。

 相手は合法的に日本に在住する中国人の子弟である学生であります。

 安んじて学業に励むことができるように、あらゆる力を尽してこそ、日中友好の実をあげることができるはずでありましょう。

 わたくしたちはこのような日本人の品格を傷ける事件を日本と日本人自身の問題として重大視し、こんどの襲撃事件が多くの日本国民の日中友好への願望をふみにじるものであることをはなはだ遺憾とするものです。わたくしたちは、ここに広く、良識ある方々に訴え世論がこれを裁くことを熱望します。

  一九六七年三月十三日

 安藤更生(早大教授)外三十五名

 このような不幸な事件続発のなかで、協会は善隣学生会館内の事務所を放棄したため、差当たり事務所難にくわえ、「日共」系分子が脱落し、多くの会員もとまどいのうちに再結集せず、六万人いた会員のうち日中友好協会(正統)に再結集した会員数は四百名程度に激減した。また、いまから考えると滑稽なことだが、中国の文革を直輸入した一部会員の突きあげによって、協会活動の中心であった常務会議のメンバーが、次つぎに辞任を申し出た。このころは協会の一番困難な時代であった。

(この項は、一九七九年五月執筆)

 一場の喜劇

 文革の嵐が中国で吹きあれはじめた一九六六年、日・中両共産党が袂をわかった煽りをくって、日中友好協会が「日共」派と非「日共」派とに分裂したあと、日中友好協会(正統)の旗を揚げたことは、すでに述べた。

 そのころ、協会は善隣学生館内の中央本部事務所を放棄したため、新らしい事務所を設けなげればならなかっだ。ところが協会は当時、過激な団体と見られていたために、なかなか新らしい事務所を貸してくれるところがなたった。そのとき、新宿駅の東口に事務所をもっていたH氏が、その一部を協会の事務所に貸してくれることになった。

 それは有難いことだった。しかも会議室に使うようにと社長室を開放してくれた。それまではよいのだが、それ以来、協会がどのような役員会をもっても、役員でないH氏が出席するようになった。わたしはあるとき、「あんないいかげんな会議には出ないよ」とM事務局長にいったところ、さすがにM事務局長も気がついて、つぎの会合の際、新宿駅ビルに会場をみつけたから出て来てくれと連絡があった。いってみると、そこにもまたH氏が頑張っていた。

 どうしてなのかと訊ねてみると、M事務局長は、その会場もH氏の奔走により見つけたのだということだった。それにしてもおかしなことであった。

 文革の初期、協会(正統)の幹部のわたしどもは、こともあろうに、協会内部の一部の「革命的」な人びとから、文革を真似て、「実権派」、「走資派」と罵られ、「団体交渉」とか「大字報」(壁新聞)で攻撃され、はては三角帽をかぶせて街頭を引き廻わすと脅かされた。日本の資本主義の花盛りのなかで、わたしどもに三角帽をかぶせて街を引き廻わしたならば、まわりの人ほどんな顔をしたであろう。それは、わたしどもの運動の一活困難な時代の出来事であったが、いまにして思えば、一場の喜劇でしかなかった。

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