(四) 分裂そして団結
三・一五事件
一九六六年も暮れて、翌年には、前記の善隣学生会館事件が起こったが、これにつづく困難な時代を乗り切ることができたのは、主として「日共」を離党した協会幹部の力によっていた。しかしこの幹部たちの気負いは、次第にセクト主義となり、何かにつけて協会を私物のように振舞うようになっだ。わたしは我慢の限度に達した感じで、ある雑誌に「われわれの修正主義反対闘争はこれでよいのか」なる文章を発表した。かれらは日本共産党(左派)なる新政党を組織した。これを嫌がった、K会長を中心とする社会党系の会員と日共(左派)の会員とのあいだの矛盾が次第に激化していった。
そうこうしているあいだに、一九六九年三月十五日、いわゆる「三・一五事件」が起こった。わたしどもが、新らしく移った科野ビル(いまの日中友好会館ビル)の七階会議室で、第九回常任理事会を開いているとき、突然、新左翼団体員を名乗る連中が、二〜三十名会議場に闖入し、出席中のK会長以下常任理事に、かたっぱしから欧る蹴るの暴力をくわえた。とくに協会内の日共(左派)所属の役員が狙われたようであった。若干名の負傷者が、会場から病院に運びだされた。
闖入者たちは、口ぐちに「毛沢東思想を認めない者は会員にするな」、「独占資本から金を出させて、日中友好運動の砦であるこのビルを買いとるとは何事だ」と、極左的な言葉を叫んでいた。この「三・一五」事件の真因については、各種の意見があった。しかし次第に、協会内の日共(左派)グループにたいする反発がもとであって内部矛盾であるというのと、いやしくも暴力沙汰に訴えるのは敵対矛盾である、内部矛盾にしても、解決の仕方を誤れば敵対矛盾に転化するという二つの意見に大別された。
当時、わが協会を攻撃すると予想される勢力は少なくなかった。アメリカ帝国主義、ソ連現代修正主義、日本国内の反中国勢力、「日共」の四つの敵のほかに新左翼の一部などであった。わたしは「三・一五」事件の原因は、協会内部の日共(左派)グループにたいする反発にあったと思う。当時の協会機関紙「日中友好新聞」に、三・一五の闖入者を、「反中国、反革命の諸潮流」と敵対矛盾の立場で規定したところ、四月七日、O、M氏等に率いられた一群が科野ビルにふたたび乱入し、協会事務局員やビル内の会社職員多数に暴方をふるい、瀕死の重傷を負った女性もいた。これはのちに「四・七」事件と呼ばれた。
こうして二つの意見の対立は、ますます深まり、一派はわたしが代表し、他の一派はK会長が代表する結果となった。K会長は、よく大鳴大放などといって、中国の文革に、ことさら呼応するような態度をとった。わたしどもの派は、常務会議での話しあいを打ち切ったK会長派を責めた。K会長派は社会党系の人が多く、そのなかの穂積七郎常任理事は、分裂調停の立場から自宅を両派代表の話しあいの場に提供して、六、七回話しあいをやったが成功しなかった。結局、K会長派は事務所を他につくるのみならず独自に機関紙を発行するなどして、この組織の不正常な状態は固定化した。これは国内の各方面で評判になり、マスコミも野次馬的態度でとりざたした。
成就した団結
そのうちに中国から、北京で浅沼前社会党委員長殉難十周年記念祭を催すから訪中するようにとの招電がとどいた。一九七〇年十月のことだった。わたしどもは日中友好協会(正統)代表団(宮崎世民団長)を組織して訪中した。それと前後して社会党浅沼記念訪中団(黒田寿男団長)も訪中し、かねて国慶節祝賀のために訪中していた日中文化交流協会訪中団(中島健蔵団長)との三団が、北京でいっしょになった。 わたしどもの北京到着は十月十一日だったが、驚いたことには、到着早そう、周恩来総理と会見することになった。
会談の内容については、三好一団員作成の「周総理会談記録」があるので、要約する。
わたしども一行は、人民大会堂の福建省の間に招じ入れられ、午後七時二十分から十時三十分まで話しあった。出席者は、中国側が周恩来総理を代表に、呉暁達、徐明、庄涛、王暁雲、奈子民、林麗温、周斌、顔万栄の諸氏であり、日本側は宮崎世民を団長に、三好一、吉谷荘一郎、楢崎富男、立石虎記、乾春雄、飯塚昭吉氏であった。
双方挨拶のあと、周総理から「もしよければ、さきに宮崎先生から話しをお聞きしたい」とうながされ、わたしは、毛沢東主席が、一九七〇年五月二十日に発表された「全世界人民は団結してアメリカ侵略者とそのすべての手先をうち破ろう!」という声明を踏まえて、日本国内外の情勢についての認識を述べ、わたしどもが、反米国際統一戦線に参加し、その一環として、日本軍国主義を打ち破り、日本の政治体制をかえて、日中国交を実現するなら、日本人民としての役割りを果たすことになる。この闘争に必らず勝利する確信をもっているが、日本国内の統一戦線づくりはおくれており、責任を感じ、残念に思っている。この機会に、同総理から、わたしどもの運動の、足りない部分、誤った部分について意見を聞かせてもらい、力を添えていただければ有難いと申し述べた。このあと、会談はおおむねつぎのようにすすんだ。
周 |
まず、皆さんが、日中友好運動に長年たずさわって成果をあげ、日中両国人民間の往来と反米闘争に貢献して おられることにたいして、うれしく思い、感謝します。 客観的情勢からいえば、こんにちの日本人民は、一九三〇年代、四〇年代とちがう、五〇年代とも一九七〇年代はちがう。日本人民の自覚は高まっている。これは皆さんの活動の賜物です。 日本人民の自覚が高まればたかまるほど、反動派の圧迫もまた強まる。反動派の圧迫が強まれば、人民の反抗も強まる。一般的にいって、そういうものです。 この両者の相互関係からすれば、つねに、支配階級は革命を恐れ、人民を圧迫する。これが運動を推進するカとなっている。反動的圧迫が強まればつよまるほど、人民の自覚もいっそう高くなる。そして人民の革命への要求を、反動派は押さえようとしても、とうてい押さえつけられなくなります。 日本人民は革命を要求しており、アメリカ帝国主義の日本占領、軍事基地、安保、軍国主義復活、アメリカ帝国主義の戦車にしぱりつけられることに反対し、民族独立、自主、日中間の友好往来を望んでいる,このことは、はっきりしています。そしてこの潮流を、支配階級は、とどめることはでぎません。またアメリカは、この日本人民の要求を受け入れられないでしょう。 この日本人民の運動は、五〇年代に発展し、六〇年代に強まり、七〇年代に深く滲透している。こういう運動のなかで、宮崎先生がいわれているとおり、客観情勢に主観がおくれることがでてくる。これは日本だけではなく、過去の中国の革命の歴史のなかにもあったし、プロ文革のなかでもでている。だから宮崎先生のいわれたように、自分の努力の不足を感ずるのです。 さきほど、宮崎先生は、謙虚に中国の友人から意見を求めたいといわれたが、われわれほ皆さんの友人として、日中友好協会の眼目である友好を望むという立場から、意見を述べて参考にしていただきたい。意見を述べる場合、友人であるから、ときには率直に申し述べたい。 しばらくまえに、日本共産党(左派)の同志が来訪した。御存知ですか? わたしぼ康生同志と、この場所で 左派の同志に話したことがある。 日本人民が革命を要求しているのに、「日共」宮本修正主義集団は革命をやらず……日本人民が中国人民と仲よくするのを望んでいるのに…日修は友好に反対した。これはつまり、宮本修正主義が日本人民に批判されたのであり、かれらは恥ずかしさのあまり、日中両国人民の往来を断絶したのです。こういうやり方は中日両国人民の願望に反します。革命はやはり日本人民の力に依拠してやらねばなりません。それはどこの国でも同様です。中国人民は、プロレタリア国際主義の立場にのっとって、日本人民の闘争を支持します。それは、どの派がイニシアチブをとるかにかかわりありません。 たとえば、明日、元社会党委員長浅沼稲次郎氏の記念集会をやるが、かれは社会党の人です。日本人民の闘争のなかで勇敢にたたかい、犠牲になった。かれは、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵である」との雄大な言葉を残した。だから、社会党の人だが記念します。かれは、社会党の人ではあるが反帝闘争のうえで戦友です。 同じ壇上に立っていた野坂とくらべてみると、ファシストは野坂を殺さず浅沼を殺した。敵の目からみてもはっきりしている。……ここにも社会党員が二人いますが、浅沼先生の事績は、社会党にとって光栄です。同じように、友人のなかには、日修を除名された共産党員がいます。それは光栄なことです。 個人のことをいえば、一九五九年、樺美智子さんはアイゼンハワーの来日に反対して、敵の面前で犠牲になっ た。当時、日修はトロツキスト呼ばわりしたが、たとえトロツキストであっても、敵の刃のもとで犠牲になった反帝の戦友は、尊敬に値します。当時、毛主席は称賛の辞を贈られた。しかし日修は賛成しなかった。敵の刃のもとで犠牲になった人を尊敬しなければ、反帝の戦士を認めなければ、自分を反帝戦線の外に追いやることになる。修正主義は必らずセクト主義をもたらすものである。 ソ修は、わたしたちのことを民族主義、教条主義、経験主義、セクト主義、冒険主義とかいって、いろいろなレッテルを貼っている。わたしたちは、かれらに詰問したい。アメリカ帝国主義は共同の敵だといっていなが ら、それと野合し、日本反動派とうまくやっている。これが国際主義といえようか? このことは、ひとつの革命派、個人にたいしていえるだけでなく、国家にたいしてもいえる。われわれの目のまえに実例がある。きょう、わたしたちの新聞に、カンボジア民族王国団結政府を支持する中国政府の声明が報道された。アメリカ帝国主義は共和国であるが、とことんまで反動の国である。これに反して、カンボジアは王制だが進歩的だ。王国と共和国をみる場合、その支配者がどういう政策をとっているかをみる必要がある。体制は形式だ。 アメリカ帝国主義と日本軍国主義復活に反対する人は、友人とみなし、連合しなければなりません。友人は多ければ多いほどよい。力を集中して主要な敵に打撃をくわえる必要がある。反帝国際統一戦線をつくるうえで、このように考えています。この点はいかがですか? |
この問いにたいし、わたしは、かりに一万人の団結が、五百人をくわえることによって、内部がごたごたしてうまくゆかぬおりは、べつの方面に力をいれて拡げてゆく方がよいと思うと答えた。同総理はすぐさま、「では、五百人は敵になるのか?」と聞いた。わたしは、敵ではない。妨害にならぬ保証があれば歓迎すると応じた。
周 |
よくわからない。敵でないというのに、味方の陣列のなかで混乱を起こすというのですか。誤りを犯した人なら、誤りを改めることを許してやっていいのではないか。自分たちの側には、百パーセント誤りがなかったといえるのか? まさか、そうではないでしょう。マルクス・レーニン主義者としては、そうすべきではないか。レ ー二ンと毛主席は、そういうふうにいっておられる。日本民族にも「自からの欠陥は反省する」という言葉があるはずだ。 プ口文革のなかでも、われわれは経験した。……まちがいについては話してやるべきだ。そうすれば改められる。そうでなければ、気がつかず、改められず、自分たちだげが革命家と思い、自分たちだけが左派だと考え る。……統一戦線としていう場合、いろいろな派閥、来源から来た人がいるが、反米帝、反軍国主義なら連合すべきだ。 |
わたしは、同総理のいわれるとおりだと思った。しかし日本の事情は複雑なので、団結を妨害する者とほ闘争し、是非を明らかにして団結をかちとる。それには一定の期間を必要とする。いま、いろいろ働ぎかけているが効果がない。が結局、周総理のいわれるとおり、解決できると考えているといった。
周 |
宮崎先生が意見を求められたので、わたしの意見を述べました。宮崎先生が、中国の友人の話しは聞かないというのなら別だが。わたしは、反米国際統一戦線一般について述べたのです。貴方の頭は、黒田先生の問題で一杯なのではないか。それでは話しても仕方がありません。 |
わたしは、責任を感じているので、この問題で頭が一杯になっていて、そのように申しましたが、なお反省して、団結のためにいっそうの勢力をしたいと思っていると、意志表明をした。
そして、日本で大衆のなかから運動を起こし、各界各層を組織して反米統一戦線を拡大していげば、日中友好運動の足並みを揃えることができると思うと私見を述べた。
周 |
もっと問題を大きくみなくてはならないのではないでしょうか。反米国際統一戦線が提唱されているこんに ち、中日友好運動をやるということは、日本人民だけの問題でなく、中国人民、朝鮮人民、アジア人民全体の問題てす。統一戦線は広大なものです。大きな広い視野でみるべきです。 さきほどの宮崎先生の話しのとおり、反米統一戦線を拡大するうえで、各分野、各階層を組織すること、大衆に依拠し大衆のなかで発展させるのはよいことです。その意見には賛成です。 |
周 |
日本でいかに日中友好運動をすすめるか、その国の運動は、その国の人民が主体となってやるべきであり、日本人民が反米帝、反軍国主義の旗印でやってゆくべきです。わたしたちは、日本人民の正義の闘争をすべて支持します。支持しなければ、わたしは、プロレタリア国際主義ではなくなる。 もし、宮崎さんとその友人が、この前提を確認するなら、相談したいことがあります。 第一の問題は、日本人民のなかの政治家、知識人、労働者、農民の活動家のなかで、アメリカ帝国主義に反対し、日本軍国主義に反対し、蒋介石との往来に反対し、中日友好・国交回復を主張する人は多い。日中友好協会(正統)本部に参加している人だけではなく、沢山いるのではないか、そういう人は多く日中(正統)に含まれていないのではないでしょうか。日中(正統)は、いくつの県に組織がありますか。 |
三好 | 三十四県にあります。 |
周 | 会員数はいくらですか。 |
三好 | 七千二〜三百人です。 |
周 |
反米帝、日中友好を望む人からいえば、それはまだまだ限られた少数です。 皆さんが日中友好協会(正統)派であることは認めています。このたび招待したことは、認めていることを意味します。しかし、もう一部の人たちが、米帝に反対し、日中友好を求め、その趣旨で中国との往来を求めたなら、どうしたらよいでしょうか。 |
宮崎 |
それは中国が決めることだが、呼ぶのは賛成です。 |
周 | そうすると、第二、第三、第四の人たちが交流を求めてきます。その場合、日中友好の一手に引きうけてやることがよいか、力を分散した方がよいのか、集中した方がよいのか。もし本当に誠心誠意、アメリカ帝国主義に反対し、日本軍国主義に反対し、中日友好・国交回復を望み、蒋介石との往来に反対する人なら、最後には大連合すべきではないのか。もし連合しなければ、それは偽ではないでしょうか? |
宮崎 | 努カして、その方向は漸次実現しています。文化交流協会、国貿促とも実現しています。友宜団体とのあいだでは、実現しています。方法にちがいがあるが、大方向では一致しています。 |
周 |
大方向とは、大同小異ということをいうのです。大同について小異を残し、大方向について一致していても、方法、観点では、ちがうのは当然です。帝国主義に反対する闘争のなかでも、意見のちがいはある。プロレ タリア政党、共産党のなかでも、ちがった意見がある。毛主席は、「党内にも左派、中間派、右派がある」といわれている。党は、左派だけを残して、中間派、右派を党外に追い出せば純潔になるか? 残った左派のなかにもまた、左派、中間派、右派が生まれる。こうして切ってゆけば、左派は孤立し、党自体が小さくなる。スパイ(敵)……は一掃しなげればならない。しかし、そうでない人は許してやるべきだ。修正主義は批判すべぎだ。しかし改めれば、許してやるべぎだ。 統一戦線をみる場合、アメリカ帝国主義、日本軍国主義に反対しているのは、日本一国の人民だけではない。アジアの国の人民が要求している。大衆運動の場合、範囲はひろい。ブルジョアジーの左派、愛国人士も含まれます。 |
宮崎 | そのとおりです。 |
周 | いろんな団体に、往来を望む人が多い。これを排斥して、中国へ来たい人を拒絶することはできません。日中(正統)の会員以外の中日友好を望んでいる人は多い。連合に時間がかかるというが、どうしたらよいでしょうか? |
宮崎 |
日中友好運動を独占する考えはありません。労組でもどこでも、訪中することを手伝いたいと考えている。 たとえば部落解放同盟は三十万人の団体だそうだが、訪中を希望している。異論があるどころか、手伝っています。 |
周 |
第二の問題について相談します。日本人民には共通の敵がある。日本の反米帝、反軍国主義の統一戦線の問題は、日本人民内部の問題である。しかし、中日関係となると、中国とかかわりあいがある。いかに処理するか、皆さんの連合に役立つように処理しなければならない。だから、皆さんの不利にならないように聞いているのです。 目前の実際問題についていっているのです。日中(正統)だけの問題でなく、反米帝、反軍国主義の国際統一戦線の問題に関していえば、たとえば、浅沼記念集会です。黒田先生は社会党を代表してきている。皆さんは日中(正統)を代表し、中島先生は文化交流協会を代表てきている。この場合、臨時の統一行動はありえます。 宮崎先生が、演説を準備していることに感謝します。 この集会は、米日反動派・ファシズムに反対するものだ。少なくともこの問題については、皆さんは戦友ではありませんか。席上で挨拶も、握手もしなげれば、中国の人民は胸を痛める。共同の敵に反対しながら握手もしないとは、中国人民には理解できません。それが日本民族の伝統なら仕方がありません。 |
宮崎 | 個人の問題ではありません。日中(正統)というひとつの組織に、二人の会長がいるというのは、会員ならびに日本人民に迷惑をかけている。中国の人民にも御迷惑をかけてすまない。社会党を代表して来ているのであれば問題はない。別の組織の代表なら問題はありません。 |
周 |
中国人民に迷惑をかけたことはありません。わたしは、革命に参加してから、この種の問題で、迷惑をかけられたなどと考えたことはありません。 問題は、組織が二つにわかれていることは、反動派を喜ばせるだけだということです。したがって、皆さんを日中(正統)と認めています。黒田先生は社会党の団長、中島先生は文交の代表です。同席することがどうしてできないでしょうか。アメリカ帝国主義に見せてやるべきではないか。ここには二つの会長問題は、すでになくなっているではありませんか。 外交の場で、われわれは抗日のために、蒋介石とさえ手を握った。同志を殺した血にまみれた手さえ握った。その後、内戦のときは、断固たたきだしました。 |
宮崎 | 非常に強い教訓として、いまの御言葉をいただいておきます。 |
周 |
「相手の側に悪人がいて、自分の側に悪人はいない」とはいえません。中国人はそういうことは、絶対にいいません。プ口文革のなかでもそうだった。「プ口文革は一回では終らない、何回も文革をやらねばならない」と毛主席はいわれた。これこそ「実事求是」です。 |
宮崎 |
まったく異論はありません。 |
周 |
飛行機からおりてぎたときのような態度では困まります。明日の会場で、手も握らず、口もぎかないことが現出したら、ニクソソ・佐藤を喜ばせます。中国人民を悲しませます。偉大な日本人民には、偉大な気概があると信じます。わたしは、中国人民の懇切な気持が、受け入れられないとは信じません。日共(左派)の同志とも、この場所で康生同志と話しあったが、意見はよく合致しました。 |
宮崎 |
わたしは社交は不得手で、旨いことは出来ますまいが、出来るだけ努カします。 |
周 |
これは社交ではありません。革命にたいする態度の問題です。 これは一時的な統一行動です。長期にひとつの組織にいるというのではないのです。浅沼精神を尊重する皆さんが、どうして統一行動がとれないことがありましょう。 |
宮崎 | 連合できない理由はありません。しかし、ひとつの組織の二人の会長でないことが前提です。 |
周 |
尊敬する反帝戦士を記念するのです。その遺影を前にして、共同してたたかえないことがありましょうか。宮崎さん、三好さん、明日の記念集会では、連合して、敵にみせてやりましょう。 もし共同行動をとる場合、右もあれば左もある。色あいのちがいがある。「永遠に同じ色あいであることはありえない」と毛主席はいわれている。マルクス・レー二ンもそういっている。ここに同席している同志たちのあいだにも、思想の差異がある。わたしは同席の徐明同志とも、絶えず論争している。かれはわたしよりも左で す。 外交は敵にたいしてやるのです。統一戦線のなかでは、友人です。信頼感がなくてはなりません。しかし大同についても小異はあります。日本の七人の友人の皆さんも、思想に差異がないとは思えません。中国でも同じです。大方向が一致しているかぎり、一緒に行動をとれないことはありません。 わたしたちは皆さんを、尊敬すべき友人とみています。 |
周 |
第三番目の問題ですが、これはもっと具体的です。 さきほどの二つの問題については一致しました。大きな面では連合に賛成である。これは統一戦線の原則だ。わたしたちは、友は多ければ多いほどよい。主要な敵に打撃をあたえなげればならない。アメリカ帝国主義、日本軍国主義に反対するのは、中日両国人民のみならず、朝鮮人民、インドシナ人民、アジア人民の共通の任務であります。もちろん連合を破壊する者は敵である。ねらいは主要な敵におくべぎである。運動のなかで、誰れが本当の友で、誰れが二セの友かが見極められます。 明日の臨時共同行動は、敵にたいするデモンストレーションです。日本人民と中国人民が反米戦士を記念し て、米日反動に示威をおこなう、このことでは意見が一致しました。明日の演壇上で、論争などしないでください。 第三の問題は、われわれの願望ですが、二つの日中友好協会の組織が、連合しあうことを望みます。 それが駄目なら、次善の案として、黒田さんを説得して名称を変えさせ、闘争の実践のなかで、最後には同じところへ歩みよらせればよいでしょう。それもだめならば、中国としては、沈黙するよりほかはありません。 |
わたしは、三・一五、四・七、九・一四など、これまでの事件と大団結を求めた経緯を説明し、相手が自己批判してくるのなら問題はない、と意見を述べた。
周 | 相手が自己批判すれば、ただちに話しあいにはいってもよい、自分たちにも欠点があると認めると理解していですか。 |
宮崎 | そうです。 |
このあと、しばらく相方より、強制的には団結でぎないこと、是非を明らかにすること、中介者の問題などを一しあう。
周 |
これは人民内部の矛盾の範疇にはいります。かれらの内部に悪者がいるかもしれないし、皆さんのなかにも形は「左」で実は右の人がいるかもしれない。この人たちは、最後まで大連合に反対する。原則的には団結が必要であり、第一案がよいが、自信はありません。 このまえ、黒田さんには、連合の話しはしなかった。浅沼さんのことを話しました。今回は、まだ会っていない。集会のあとで会います。まず記念集会を成功させることです。 わたしたちも、かれを説得してみます。もし聞かなければ―― 佐々木更三さんは社会党員だが、かれの見解は、分裂の責任を黒田氏が、少し多くとらなげればならないといいました。このことは外で話してくれては困る。新聞記者を呼んで発表してくれては困まります。(笑い)――佐々木氏は誠意をもって語りました。 もしこれがうまくゆかねば、友好のやり方は沢山あるのだから、同名の組織が二つあっては困まるので、名称を変える方法がよい。ゆっくり別べつに運動する方がやりやすい。「水到れば、おのずから水路開く」です。 |
宮崎 | 団体がちがえば、連合はやりやすいです。 |
周 |
果たして、そのとおりゆくかどうか。第二の案も駄目だということになるかもしれない。わたしたちとして も、公然と声明をして、一方の側に打撃をあたえることはできません。 ひきつづき対刈立をつづけることは不利です。第一、第二の方法とも実現でぎなければ、しばらく沈黙せざるをえません。この問題にはふれません。 皆さん、明日の臨時共同行動を、立派にやりましょう。 |
宮崎 | 第三の問題については、第一案、第二案どちらにも異論はありまぜん。われわれも団結のために努カして、是非、成功させたいと思います。 |
周総理の仕事熱心なことは、かねて聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。夜更けまでの、情理を尽した会談は、日中友好を妨害する敵とたたかう、真底、日中友好を推進する戦友の会談だった。
要するに、日中友好を求める広範な日本人民との団結の問題、浅沼記念集会での臨時の統一行動の問題、協会内分裂両派の団結の問題について話しあわれた。
なかでも、当面、明十二日開催される浅沼記念集会で、わたしに、黒田団長と握手をしてほしいというのである。そしてそれができなげれば、中国人民はどんなに悲しむだろう。またアメリカ帝国主義はどんなに喜ぶことだろうというのである。
わたしは、「わたしは社交は不得手で、旨いことは出来ますまい……」(じつは演出めいたことは出来ないというつもりでいった)と答えたところ、同総理は、「これほ社交ではありません。革命にたいする態度の問題です」と、ぎつい調子でいった。わたしは、あまりにも情理を尽した総理の言葉に、応諾せざるをえなかった。
翌日は、いよいよ記念集会の当日である。会場は、政治協商会議の講堂であった。周総理は、早ばやと会場に姿を見せていた。議長団の中央には、主催団体の中日友好協会郭沫若名誉会長、対外友好協会丁西林副会長が、すでに座を占めていた。集会はまず、丁副会長の開会の辞に始まり、郭名誉会長が挨拶をした。それにつづいて、黒田、宮崎、中島の順で挨拶をした。いずれも反米国際統一戦線を内容としたものであった。周総理は、終始、各人の演説に熱心に聴き入っておられた。そして総理は、わたしと黒田氏との握手を見届けた。
その後、北京滞在中に、黒田、宮崎団の双方から代表を五名ずつ選出して、団結の話しあいをすすめることになった。
暇をみては、文革中、分裂、団結を経験した、いくつかの機関、工場、学校などを見学したが、いずれも、わたしどものことを十分承知していて、一旦分裂したのがどのように団結したのか、経験談を語ってくれた。人民あげての援助であった。
帰国後も継続して双方が努カした結果、ようやく合意が成立し、一九七一年八月二十九日、中日友好協会の王国権副会長を来賓として迎えた団結大会において、団結は成就した。
(この項は、一九八二年十月執筆)