(五)大転換の年代

 日中国交回復す

 一九七〇年代は、それまで中国を敵視していた世界の大部分の勢力が、対中友好に態度を改めた、世界史的な大転換の年代であった。

 一九七一(昭和四十六)年十月二十五日、国連総会において、「国連における中華人民共和国政府の合法的権利を回復し、蒋介石一派を追放する」決議案が、雪崩れをうって可決された。一九七二年二月二十八日には、ニクソン米大統領が訪中して毛沢東主席と会見し、「中米共同声明」(上海コミュ二ケ)を発表した。七月七日には、佐藤内閣退陣のあとをうけて、田中内閣が成立した。九月二十九日には、田中角栄首相、大平正芳外相が訪中し日中共同声明が調印され、日中国交正常化が遂に実現した。一九七八年八月十二日には、日中平和友好条約が調印され、十月二十三日に発効した。そして一九七九年一月一日には、中米国交正常化が成った。

 七〇年代に起こった、このいくつかの出来事をみただけでも、事態は明らかである。世界的な中国敵視の包囲網は崩れ去り、無数の友好の手が中国に差しのべられ、日本国内でも、政府、経済界、文化界、労働界をはじめ、あらゆる階層が日中友好の陣営にくわわり、子々孫々の日中友好を誓う仲間となった。 わたしの八十年の人生のなかでも、こんなに嬉しいことはなかった。

(この項は、一九七九年十月執筆)

 『日中国交回復は人民の力で』

 日中国交正常化が、いよいよ近くなったころ、日中友好協会では国交回復に向けてパンフレットを発行することになったが、そのパンフレットの発行をめぐつて、協会内部に新たな矛盾が起こった。

 団結後も協会内部に日共(左派)グループが存在し、何よりも具合の悪いことには、M事務局長がそのリーダーであり、日中友好協会という大衆団体を、自分たち独自のイデオロギーで指導し、事務局をはじめ組織全体を引き廻わしていた。そして日中国交回復は、独占資本の手先である田中内閣にまかせるべきでないというのが、かれらの主張であった。わたしどもはこれにたいし、一応、田中内閣でも国交回復ができたら、わたしどものような民間の活動も、もっとやりやすくなるではないかと主張したが、かれらはきかなかった。

 常務会議で事務局長が、『日中国交回復は人民の手で』という会員向けのパンフレットを、協会名で発行したい、案文は自分が書くと提案した。わたしや副理事長の岩村三千夫氏も反対した。そして是非にというなら、執筆者名で発行すべきだと主張した。結局、事務局長らの主張で押し切られ、不甲斐なくも、わたしのカの限度では、。パンフの題名を『日中国交回復は人民の力で』と改めさせるのが精一杯であった。しかし協会名で発行することは、まだ決定せず、常務会議で決定した方針により発行するものであるとの、冒頭のことわり書きをするという条件つきで出すことにした。

 常務会議のあと、事務局長は何度も同じグループの人をよこして、わたしにパンフ発行者を協会名にすることを迫った。また他の常務会議のメンバーも、同じグループの事務局長提案に同調し、その意向にしたがって、冒頭のことわりがきを、勝手に後記に変更して、印刷、刊行、発送の仕事をすすめた。このパンフレットは、あんのじょう受けが悪かった。地方組織に送ったパンフは、半分ほど返送された。

 一九七一年、アメリカのキッシンジャー国務長官が隠密裡に中国を訪問し、七月十五日には、中・米両国政府は、ニクソン米大統領が一九七二年五月までに中国を訪問することを公表した。これに驚いたのは、佐膝政府であった。なぜなら、佐藤政府は、日中正常化が中米正常化に先を越されることを、もっとも恐れていたからである。そのつぎにあわてたのは、わが協会内のいわゆる日共(左派)グループであった。

 協会は国交回復が近づいたことを知り、それを先き取りして一九七二年八月二十日、日比谷野外音楽堂で日中友好協会(正統)中央本部主催「日中国交回復即時実現中央集会」を開催した。つまり協会のこの集会で復交が成就したことを誇るためであった。この集会のためには、とくに広範な友好人士宛に案内状が配られ、各界代表六千人が全国から集まった。ある保守党代議士が挨拶のなかで、「ソ連の北方領土占拠にたいするため、日本は軍備を強化しなければならない」というや否や、会場から「軍国主義!」という弥次が飛んだ。わたしは、この保守党の人物と顔見知りでもあり、折角骨折って来てもらったのにすまないと思い、帰り際にあやまりに行った。これは田中首相が、日中正常化のために訪中する、わずか一ヵ月まえのことである。また日中(正統)主催で一九七四年十二月八日神田の共立講堂において「日中平和友好条約の実現をめざす国民集会」を開いたことがあった。会場には二千三百人ほど集まった。が、場内の拍手が、日共(左派)の者にたいするのとそうでない者にたいするのとでは、目立って差別があったのを感じた。日共(左派)のセクト主義はそんなものであった。

 国交が回復されたあと、協会内外の人びとが、協会はこんごさぞかし大発展するだろうと期待したが、 一年、二年、三年たっても山口県以外の他の協会の組織は目だった伸びを示さなかった。そこで、思想・信条、政党・政派を越えて、日中友好を求める、すべての国民による日中友好運動づくりを目ざす、「大学習運動」なるものを始めた。その運動の要領は、まず中央から始め、各地方組織ごとにおこない、何が組織拡大を阻害しているかを討論することであった。そしてわたしは、みんなが遠慮せずに所信を述べ、そのために多少組織内に風波が立ってもかまわないと各組織を励ました。運動はだんだん広まり深まって、次第に「日共(左派)」勢力が孤立してきた。結局山口県本部を中心とするその勢力が協会からの脱退を通告してきた。「日共(左派)」はその後、毛主席が発表した「三つの世界」論の影響もあって、内部分裂し、一方は東京に「中央委員会臨時指導部」なるものを設け、これまでの機関紙「人民の星」とは別に、「人民新報」という機関紙を発行しはじめ、「山口(左派)」と袂をわかった。「臨時指導部」の指導下にある日共(左派)グループは協会内にとどまり、離脱していった「山口(左派)」系は、日本アルバニア友好協会なるものに看板を塗りかえたが、長続きせず、その活動は消滅してしまった。

 (この項は、一九八二年執筆)

 台湾は中国領土の不可分の一部

 辛亥革命七十周年記念行事が開かれるということで、わたしは、一九八一年九月三十日訪中し、これに参加した。

 その行事のひとつとして、十月十日、ケ穎超副準備委員長の司会のもとに茶話会が催された。

 葉剣英全国人民代表大会常務委員長は、一九八〇年一月一日に「台湾同胞に告げる書」を発表されていたが、この九月三十日、中華人民共和国成立三十二周年国慶節の前夜に、ふたたび「台湾祖国復帰、平和統一実現の方針、政策をいっそう明らかにした談話」を発表し、情理を尽して第三次国共合作を呼びかけられた。そして十月九日、辛亥革命七十周年記念では、人民大会堂に集まった各界一万人の人びとをまえに、胡燿邦中国共産党中央委員会主席が大要、つぎのような演説をされた。

 「一九一一年、孫中山先生を指導者とする革命党の人びとが、中国で清王朝を覆す革命を起こし、民主共和国の旗をうちたて、中華民国を樹立した。これは中国の歴史で大きな意義をもつ革命である。今日の情勢のもとで、わが国の大陸の九億八千万同胞と台湾の一千八百万同胞がともにこの栄えある祝日を記念することは、とりわけ大きな現実的意義をもっている」

 「毛沢東同志をはじめとする中国共産党は、全国人民を指導して新民主主義革命の勝利をかちとり、中華人民共和国を成立させ、ここに中国の半植民地・半封建社会の時代を完全に終わらせ、国家の独立と人民の民主を実現し、さらに社会主義へと移行した。孫中山先生はじめ辛亥革命の志士たちが追求した目的はついに現実となった。辛亥革命は民主主義革命のはじまりとして以後の一連の歴史の発展に道をきり開いた。従って、われわれ共産党員と全国各民族人民は、新民主主義と社会主義の勝利を辛亥革命の継続であり、発展であるとみており、辛亥革命を指導した孫中山先生とその同志たちに対して、崇高な敬意をはらっている」

 「孫中山先生は偉大な民族英雄であり、偉大な愛国者であり、中国民主主義革命の偉大な先駆者である。孫中山先生の革命精神はわれわれに残された最も貴重な遺産として、わが民族のすべての革命者、愛国者を永遠に励ますことだろう。孫中山先生に対する崇敬と追懐の情は、今日依然として中国大陸と台湾を結びつける強大な精神的きずなとなっている」

 「われわれの当面の時期における国内、国外の任務は、三つの大事に概括することができる。それは四つの現代化の実現、世界平和の擁護、統一の大業の達成である。台湾が祖国大陸から切り離されているという局面をできるだけ早く終わらせようという声は、すでに日ましに高まり、そしてはばむことのできない歴史の潮流となっている。歴史上、国共両党は二回も合作を行っており、この二回の合作によって北伐と抗日の大業をなしとげ、わが民族の進歩を力強く促した。従って、いま統一した国家を建設するために、第三次国共合作をしていけない理由はないはずである」(『日刊中国通信』一九八一年十月十三日号より抜萃)。


 そして胡主席は、最後に、蒋経国氏はじめ台湾の党・政府・軍関係者と各界人士が自から大陸、故郷に帰ってくるよう招請した。

 したがって記念集会とつぎの日の茶話会に参加した人びとは、こぞって、これらの呼びかげは、まことに時宜を得たものであり、あすにでも台湾側ほこれを応諾し、全中国の統一が実現するだろうと述べた。

 しかしわたしは、台湾の事情を、まったく知らないでもない。巷間では台湾政情は安定せず、いまにも反乱が起こるというふうに見る人があるが、それは実情とはちがい、台湾の連中は国防、経済ともにかなりの自信をもっており、とくに経済は旨くいっている。だから台湾が直ちに応諾するとはかぎらない。ものごとは、主観が客観と一致して始めて成就するものである。

 だからわたしが茶話会で述べたことは、かならずしも他の発言者に同調するものではなかった。しかし異論を唱えただけでは、日中友好協会やわたし個人の、台湾問題にたいする考え方や態度を誤解されたり、疑われたりしては困まるから、発言の前半では、台湾の統一のためにいかに心を砕いたかを強調した。そして後半で、台湾側がこの呼びかけに即応するなら、それに越したことはないが、現代化を実現したうえで台湾統一をやるのも、ひとつの方法ではあるまいか。台湾統一は十億の中国全人民の誰れひとり念願しない者はない問題だから、現代化を早く実現すれば、それだけ早く台湾統一ができるといえば、現代化にたいする人民の積極心に拍車をかけることにもなる。つまり一石二鳥の策ではあるまいかという考えで、司会者から割り当てられた時間を超過しても、敢えて異論を唱えた次第である。

 司会者は発言時間を五分以内と枠をかけたが、わたしの発言は十五分にもなり、皆さんに大変御迷惑をかけた。通訳に当たった賈恵萱氏は、「大切なお話しだから出来るだけ正確に訳しました」といってくれた。

 だが翌日の「人民日報」は、わたしの発言の前半は載せたが、後半の肝心かなめの部分は書かなかった。 つぎの文章は、その茶話会でのわたしの発言に一部補足したものである。


  中国の台湾向け第三次国共合作の呼びかけについて

 わたしは、新中国の誕生とほとんど同時に発足した日中友好協会を本拠として、昨年暮れまで友好運動をやってきた者です。

 わたし自身は辛亥革命に参加したわけでもなく、何ひとつ貢献したわけでもなく、辛亥革命についてなんら語る資格はありません。ただ辛亥革命記念行事に御招きを受けたので、孫中山先生の御一行がわたしどもの旧い家に来られ、一泊して行かれたことは少し記憶があり、中山先生のすぐわきに立って記念撮影をしたので、わたし自身がひとつの記念品だと思って、参上したわけであります。

 まだこちらに来て幾日にもなりませんが、北京だけでも、いろいろ参観して学ぶことが沢山ありました。とくに昨日の記念集会での諸先生のお話しを聞いておりますと、台湾統一の問題が、ほとんどの皆さんから語られております。

 胡燿邦主席のお話しでは、中国が当面果たさなければならない最重要課題として三つあげられました。そのなかのひとつに全国統一の課題があります。すなわち台湾復帰の問題であります。この問題は、新中国建国以来の方針であって、台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、台湾問題ほ中国の内政問題であります。日本やアメリカは中華人民共和国の頭越しに、台湾と国際関係を結んでその内政に干渉してきました。わたしどもは、日本は中国を侵略したばかりでなく、敗戦後も中国の方からさし伸ばされた友好の手を、二十年以上も拒みつづけてきたことを指摘して、日本政府を終始攻撃してきました。

 わたし自身も台湾問題に関する中国の主張は、まことに根拠があると信じ、台湾復帰のために二つのことをやりました。

 ひとつは、佐藤内閣のときのことです。佐藤栄作氏は蒋介石とは親交があり、容易に新中国を承認することができない。しかし佐藤氏のライバルは日中友好の世論に乗って、権力の座を佐藤氏から奪おうとしています。佐藤氏はまったく進退に窮している。つまりもし新中国を承認すれば蒋介石との友誼に背き、蒋介石と友誼をまっとうすれば、権カの座を失うことになる。わたしは、自民党の某有力代議士に会い、佐藤氏が「蒋介石に中国へ復帰をするよう勧告する」ことをすすめなさい。相手がこれを拒めば、そこで佐藤氏は日中国交回復の方へ方向を転換することができるという勧告です。

 いまひとつは、米中友好協会の幹部にたいする働きかけです。かれらは訪中の途次幾たびか日中友好協会を訪問して、どうしたら米中国交正常化ができるだろうか、日中友好協会の経験に基づいて教えを乞いたいと訊ねました。わたしは、日本の場合もそうだが貴方がたの場合もそうだ。かなめは台湾問題である。カーター大統領は米中復交には前向きのように思われる。ただ国民の一部に反対者がいるから、「貴方がたは反対者を説得すべきである」と答えてやりました。またわたしは長文の手紙を、かれらの機関紙の編集者に送り、アメリカ政府が中国の平和統一を望むなら、武器を台湾に売るのはその平和統一を自から阻害することになる。それをやめて中国の平和統一に積極的に協カすべきだと、いってやりました。

 先般、中国から台湾同胞への切実な呼びかけがおこなわれました。最近、葉剣英委員長は、さらに具体的に九項目の情理を尽した提案をおこないました。わたし自身も、この問題の解決を見たうえで、死にたいと思っています。

 わたしは、多少台湾問題に関する情報をもっています。台湾の政権は、経済、国防ともに、相当の自信をもっているようであります。葉剣英委員長や胡燿邦主席の呼びかけに応えて、全国統一が近じか実現するならこれに越したことはありませんが、同時にもっと長期的方策を併せ用い、現代化を促進しその実現のうえに立って、中国の統一を策するのもまたよい方法ではないかと思います。祖国の統一は、全中国人民の悲願であります。その悲願の実現のために現代化を促進しようと呼びかけるならば、現代化への積極性もさらに強化されるでありましょう。

(発言は、一九八一年十月補筆)

 この茶話会のわたしの発言のなかにある、米中人民友好協会発行の『THE NEW CHINA』(『新中国』)編集者宛の手紙を、ここに紹介する。


 拝啓

 中国との友好を目的として民間運動を推進している仲間の団体として、連帯の挨拶を送ります。

 米中人民友好協会が創立以来、優れた創意と行動力を発揮して、運動と組織の面で急速な発展を遂げ、アメリカ人民のなかに中国問題に関する理解を広め、米中正常化の基礎づくりに大きな貢献をしていることにたいし、深く敬意を表します。

 われわれ両団体は、中国との友好の追求という同じ目的を有するばかりでなく、双方とも人民の自発的な運動であるということ、台湾問題という共通の阻害条件をもっていることなどからして、お互に協カ提携してゆくことが有利であると考えます。

 なるほど日本は台湾との関係を、一九七二年の日中共同声明に基づいて、いわゆる日本方式という方法で解決しました。すでに解決したとはいうものの、日本の政界の一部では(政府の末端機構を含めて)、日中共同声明の主旨が徹底しないところがあります。また一九七二年の日中共同声明以来、まもなく五年を経過するというのに、その時に約束された、日中平和友好条約の締結がまだ実現しておりません。したがって目下のところ、日中平和友好条約を早く締結することが、日中両国間の一番重要な問題です。

 大多数の日本人民は、覇権反対を条約本文に明記した日中平和友好条約の早急な締結を要望しておりますが、日本の政府はまえの三木内閣にひきつづき福田内閣に至っても、これを実現しようとしません。

 したがってここ数年来、わたくしども日中友好協会(正統)の主要な政治課題は、日中平和友好条約の締結促進であります。

 これに較べて貴国では、台湾問題の基本的な解決方針がまだ決定せず、したがって米中関係正常化はこれからの問題になっております。

 しかし貴方がたとわれわれのいまひとつの違いは、貴方がたの大統領は正常化の意向をもっている(と理解するのは誤りでしょうか)が、まだ国民のあいだに台湾との関係を清算することを、躊躇するかなりの数の人びとがいるようです。だから貴方がたにとっては、政府の正常化政策の足をひっぱっている国民の一部を説得することが、主要な任務ではないかと思います。それに反してわれわれのほうは、日中平和友好条約締結促進のため国民の要望をさらに強化して、その力で、躊躇する政府を条約締結にふみきらせなければなりません。

 われわれは、日中友好であるが(そして日中友好であるから)、米中友好は歓迎するところです。そればかりでなく、われわれ両国政府の間柄は幸か不幸か、アメリカ軍による日本占領以来、日米安保条約を軸として、一貫して緊密であります。とくに国際外交の面では、わが国政府は、貴国政府に追随する習性がいまも残っております。われわれの運動が単に形式上のもの、みせかけのものでなく、真に中国との友好を深め、真に関係の正常化を求め、真に平和友好条約の実現を意図するならば、あらゆる創意工夫を凝らして、実効のあがることをやらなければなりません。偉大な中国革命の指導者毛沢東は、「人民、ただ、人民のみが、歴史を創造する原動力である」といいました。これは今日、多くの世界人民に、あまねく知られている有名な言葉であります。しかしその意味を真に理解し、その歴史を創造する原動力の一部として自からを自覚する者は、果たして幾人あるでしょう?

 最近、貴国のバーンズ国務長官が北京を訪問し、華国鋒総理をはじめとする中国首脳と会談しました。アメリカは長官を訪中させたし、中国は華国鋒総理がこれと会談したことは、双方の積極性を現わすものだと思います。カーター大統領は、バーンズ・華国鋒会談に感銘したといい、会談における中国側の建設的な態度を評価しています。この会談では両国関係の正常化そのものについては、とくに進展がみられませんでしたが、そのための両国の国内事情や、世界情勢についての考え方にたいする相互理解が深まり、今後、貿易、文化等の交流を拡大させることが話しあわれたことは、関係正常化の段取りが一歩前進したと考えても差しつかえありますまい。

 われわれは、今日の世界情勢の発展のなかでは、遅かれ早かれ、両国関係の正常化は実現されるものと考えますが、ただ考えるだけでなく、日中友好の立場から、それを希望し、そのために努力するものであります。

 それにしてもわれわれは、中米正常化の問題について、なお若干、アメリカ側にいいたいことがあります。

 その第一は、先般わたくしが、『日本と中国』の主張欄で述べたごとく、かつてアメリカが覇権を行使して製造した自家製造の国家、すなわち、台湾首脳ととりかわした条約によって、自からを拘束していること、つまり米台相互防衛条約で自からを拘束して、これを破棄することができず、これが、米中両国の正常化の阻害となっていることであります。まえにも述べたとおり、これは倫理的でもなく論理的でもなく、大局的にいうならば政治的ですらもないと思います。

 第二に、アメリカは上海コミュ二ケで、台湾問題は中国の内政問題と認めた以上、そしてコミュ二ケを尊重する以上、中国が台湾をいかなる方法で解放するかについて容喙すべきではありません。これに容喙すれば、内政干渉となるのは明らかであります。

 しかるに最近の新聞報道によれば、アメリカは、中国に台湾解放のため武力を使用しない保障をとりつけるかわりに、もし中国が武力を使用した場合には、アメリカは軍事介入することを一方的に宜言するだろうという者があります。もしこれが真実ならば、アメリカは他国の内政問題にたいして武力干渉、すなわち侵略をおこなうことになります。アノリカが米台条約に固執するのは、台湾民衆を見拮てないというカーター大統領の人道主義から出たものとするならば、それは中国がこれまでに、どのように国内の異民族の統一をすすめてきたかを全く知らない者の口にする言葉でありましょう。豊かな経験をもち少数民族政策に長じた中国が、台湾省を自国の領土とし台湾省民を自分たちと血を分けた同胞とする以上、アメリカ大統領の心配する事態は、われわれには想像することもでぎません。

 現に台湾問題の解決にあたり、わが国は、いわゆる日本方式を採用し、中国はこれを諒承しました。つまり日本は台湾を国家として認めることはやめるが、台湾住民とのあいだの経済、文化等の関係は過渡的にこれを認め、台湾住民の経済上の利益や生活上の便宜は、従来どおり保護されております。しかし中国が台湾統一をしたのち、台湾省民をどういう方法で統治してゆくかは、それこそ中国の国内政治であり、ますます他の容喙すべき事柄ではありません。

 もし、カーター大統領やアメリカ国民の一部が、真に中国の武力による台湾統一を望まないならば、アメリカはこれ以上、米台相互援助条約を存置して、武器の輸出などにより蒋政権の中国領土統一反対を激励するような、一切の内政干渉的な事をやめ、むしろ実質的に中国の平和解放がスムースにおこなわれるよう、協カすべきではないでしょうか。

 米中人民友好協会の皆さんがたの奮闘によって、貴国内の誤った考え方が克服され、一日も早く米中関係が正常化されることを願望しつつ。

 一九七二年秋

敬具

日本中国友好協会理事長・宮崎世民

 ザ・ニュー・チャイナ編集者殿

 茶話会での、もうひとつの話というのほ、詳しく話せばつぎのようなものであった。

 佐藤内閣の末期、日本国内には、日中友好の気運が非常に高まっていた。田中角栄氏はこの風雲に乗った。佐藤首相は、これに反対したから失敗した。

 佐藤首相は当時、中国からは反中国と攻撃されるし、アメリカには日本の頭越しに米中正常化をされるおそれがあった。そのころ、日本の外務省は、アメリカが中国との国交回復を日本より先にやるのではないかと心配し、米中国交回復の腹がアメリカで決まるならば、その二十四時間まえに知らせてくれとアメリカ側に頼んでいたという話しを小耳にはさんだことがある。日本政府はアメリカに遠慮しながら、その鼻息をうかがっていたのである。それに、ニクソン大統領は、キッシンジャー国務長官を訪中させた。

 それでわたしは、まえからよく知っていたK氏に電話をかけた。「貴方の親分の佐藤さんは、いま大変困まっているでしょう。蒋介石には大陸反攻を援助すると約束しているし、国連ではずっとつづいて中国が国連の席に戻るのに反対している。そういうことをやっていて、いまさら、中国との国交回復のほうに向きをかえることは、それはできないでしょう。しかし競争相手の田中氏のほうは、日中国交回復で権力を握ろうとしている。こういう状態では、佐藤さんはさぞかし困まっているでしょう」とわたしはいった。するとK氏は、「いやあ、そりゃあ本当に困まっていますよ、どうしたらいいでしょう」というから、わたしが「わたしは一案をもっています。電話ではなんだから、会って話しをしましょう」、「是非、教えてください」ということで、大手町のパレスホテルのロビーで会った。

 わたしの考えでは、中国との国交回復は、これは大勢だから、佐藤首相は、自分の対中政策の向きを変えることで大変困まっている。そこでわたしはK氏に話した。「佐藤さんに台湾へ行って、蒋介石に会ってこういいなさいとすすめてください。『わたしは貴方も知っているように、国連においても日本国内でも、終始、対中正常化に反対してきた。ところがいまの情勢を見ると、中国との正常化をアメリカのほうが先にやりそうな具合だから、日本でもこうなると日中復交をせざるをえなくなる。そうしたらわたし自身は、現在の首相の地位を失うことになる。だから、これがわたしの最後の友情だと思って聞いてください。貴方は、これからは中国大陸に帰って、中国といっしょになったほうがいいでしょう』と」。そうしたらK氏は、「それは、佐藤さんがいっても、蒋介石氏がそうしましょうということにはならんでしょう」というので、おそらくならんだろうが、それでわたしは、「佐藤さんが『それでは、わたしはいままで日本の首相として、あなたのためにできるだけのことをはかってきた。しかしこれからはそれが出来ません。このお勧めがわたしのあなたにたいする最後の友誼です。わたしはこれ以上、何もできません』とこういえば、佐藤さんは中国のほうに向きを変えることができる。つまりフリーハンドをとることができるではありませんか。蒋介石氏が本土復帰、中国統一に努カするというならそれでもいいし、しないなら、佐藤さんが蒋介石氏にたいし、こんご協力できないということになってもいいし、どちらにころんでもいいじゃあないですか。いずれにしても、進退極まっていたのが、これで血路が開けるようになります」というわたしの考えを述べた。するとK氏は、「いやあ、これは大変いい、名案です」というので、わたしは、この話しは邪魔がはいるといけないから佐藤首相と二人きりで話してくれるように、そしてその結果をかならずわたしに知らせてくれるように頼んだ。K氏は、「いやあ、それはもうそうします。かならず二人で話します」とこういった。

 ところが、いつまでたっても返事がないから、どうなったかこちらから電話をかけて聞いてみた。すると、わたしたちが話しあった直後、北海道で、二百何十人も死者を出すという旅客機と自衛隊機の大衝突事故がおこって、それでごったがえしになってしまって、とても二人で話しあう機会がなくなってしまったということだった。

 わたしは、それもそうだろうと思ったので、K氏が約束を破ったのはもっともだと思った。

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