(六)新時代の日中友好
直接かつ具体的な友好?
一九七三(昭和四十八)年四月二十一日、日中友好協会(正統)一九七三年度全国大会において、Mが事務局長を辞任し、その後任にNがなった。
Mは副理事長としてこのころ、「山口(左派)」と手を切り、協会運動を国民運動にする方針にしたがって努力をしていた。しかし間もなく病気になり、病気療養のため中国に長期滞在し、帰国後、病気再発により亡くなった。
その後任のNは、協会の組織分裂時代にはわたしによく協力してくれた。しかし事務局長となると、友好運動のすすめかたについて、わたしと意見の食違いができた。かれはこの数年間、Kという事務局員のみを連れて訪中し、帰国するとその都度、「中国は、いままでのような抽象的(精神的)な友好運動は望まない。中国の望むのは、四つの現代化に直接かつ具体的に貢献するものである。これが中日友好協会の責任者の言である」といった。現代化に直接かつ具体的に貢献するとは資金、資材、科学技術であり、いずれもわが協会にないものばかりである。そんなことを中国側がいうはずがないとわたしは反論したが、それは中国側にはとどかない。それを聞かされる誰れにとっても、それが本当に中国側が協会に期待するものであるかどうか、誰れも事務局長といっしょに訪中した者がないので知る由もなかった。
かれはだんだんと、「日本側では、わたしが、日中友好協会の窓口であり、中国側では中日友好協会のS責任者が窓口である」ということをいいふらし、わたしも聞いたが、各地の協会組織をめぐって、いたるところで吹聴した。
これはNの協会私物化のひとつの手段であった。このようなことを、わたしが察知できたのは、わたしが理事長をやめたあとのことである。
病気で入院中のわたしを見舞いにきてくれたY氏は、「Nは黒田会長のところに来ると、かならずきまって貴方の悪口をいう」と話していたが、Nはわたしに会うと、絶えず黒田会長の悪口をいっていた。きまっていうのは、「あの人物は屁が臭いと松本前会長が、口癖のようにいっていた」というのである。わたしははなはだ頭のまわり方が悪く、無邪気に「屁の臭いのはあたりまえではないか」というと、かれはめんどうくさそうに、「屁が臭いというのは腹黒いということですよ」といった。これは会長とわたしとの離間策で、N事務局長の協会私物化のもうひとつの手段であることを知った。
毛沢東主席を憶う
一九七六年一月八日に周恩来総理が、七月六日に朱徳全人代常務委員長が、九月九日に毛沢東中国共産党主席が逝去され、中国は革命の三巨星を喪なった。この一年、わたしは涙のかわくいとまがなかった。
最近の中国では、毛沢東主席の評価については、中国国内に、極少数の毛沢東反対派がおり、一部に毛主席全面肯定のすべて派がいるが、大多数の人民は、毛主席の功績を基本的に高く評価し、そのうえで人間である以上もっていた欠点・誤りをも認め、のちのちの教訓にするということのようである。これにはわたしも同感である。
ところがひところは、日本の新聞やラジオ、テレビなどで、毛沢東を糞味噌にいっていた。それがわたしには、一番頭にきた。そこでつぎの文章を書いた。
中国共産党のが毛沢東主席が逝去して、四ヵ年が経った。わたしはどういうわけだか、毛沢東主席を憶うと盛唐の詩人(八世紀)崔(さいこう)の詩「黄鶴楼」を想い出し、「黄鶴楼」の詩を詠むと毛沢東主席を憶う念が起こる。
黄鶴楼 昔人已乗白雲去 昔人已に白雲に乗りて去り 此地空餘黄鶴楼 此の地空(むな)しく余(あま)す黄鶴楼 黄鶴一去不復返 黄鶴一たび去りて復た返らず 白雲千載空悠悠 白雲千載空しく悠(ゆう)悠 晴州歴歴漢陽樹 晴州歴歴たり漢陽の樹 芳草萋萋鸚鵡洲 芳草萋(せい)萋たり鸚鵡(おうむ)洲 日暮郷関何處是 日暮れて郷関いずれの処(ところ)か是(これ)なり 烟波江上侠人愁 烟波江上 人をして愁(かな)しましむ
最近中国では、毛沢東批判の声がだんだん高くなってきたと、日本の新聞は報じている。だいたい昔から日本には、毛沢東を好まない一部の人びとがいる。それはまず財界人であり、保守政界の人たちであるが、「日共」も毛沢東嫌いである。これには財界や保守政界人とは少しょう違った事情があることは、周知のとおりである。
毛沢東が、なぜ日本で歓迎されなかったかは、毛沢東がきわだったマルクス主義者であり、革命家であったからである。つまり蒋介石の資本主義を倒した階級敵だと考えたからである。日中国交回復が話題にのぽったころ、わが国内では、これに反対する勢力が主流を占めていた。中国が共産党の指導する社会主義国だからということであった。したがって、わたしどもが日中友好運動をやり、国交回復運動をやったことは、日本赤化の危険な行動として理解され、弾圧されたのである。社会主義思想は長年にわたる日本政治史で養われた、保守勤皇思想に対立するものであり、また日本が敗戦以後、アメリカに忠実な資本主義国として発展してきたことと、相容れないからでもある。
ところが日本人の心の底には、もっと遠い昔からの文化の故郷としての中国が潜在し、また地理的関係から、漁業、貿易など新らしい解決を要する経済問題が生まれ、さらには、対米、対ソの国際関係が、日本の対中国外交方針を決定する要因となった。具体的にいえば、北方からのソ連の脅威と、中米和解の気運が、日中復交を促進したといっても過言ではあるまい。
その後、毛沢東は逝去したが、中国は社会主義への志向を放棄したわけではなく、依然マルクス・レーニン主義を唱導しているにもかかわらず、かつての敵対関係をガラリと変え、とくに平和友好条約の締結以来、日本の政、財、文化界は挙げて中国に友好的となった。まるで中国は日本とは社会体制を異にする社会主義国であることを忘却したかのように。
中国では最近、これと呼応するかのように、文革を否定し、毛沢東批判の声が高まり、日本の政、財界をますます喜ばせている。
わたしは、優れたマルクス主義者、偉大な革命家として、いまでも毛沢東を尊敬している。わたしの毛沢東評価は、「毛沢東がなければ今日の中国はない、しかし無論毛沢東は神ではない」、これである。
そういうわたしからみれば、今日中国でおこなわれている毛沢東批判なるものにほ、いろいろ考えさせられる。
まず第一に、毛沢東はマルクス主義の思想家であり革命家であって、行政家ではないということである。それなのにいまの中国では、主として革命政権樹立後に起こった、さまざまの経済問題、文革小組の人事、国際情勢の判断、林彪を後継者に選んだこと、いわゆる劉ケ路線の打倒を呼びかけたことなどが原因となって、批判の対象とされている。
世界で社会主義政権の国家がまだ数少なく、社会主義国家建設、とくに社会主義経済をどのようにすすめてゆくべきかについては、まだ模索の時代である。むろんソ連という先例はあったが、そこには特権階層が生まれ、官僚主義化の危険があり、順調に社会主義の道の前進を期待し難いから、当初毛沢東は、ソ連を真似るしか方法がないといっていたが、農業より工業を優先させ、工業のなかでは重工業を軽工業に優先させることは、中国の実情にあわないとみると、これを現在のように、農業、軽工業、重工業の順序に改めた。
また、ものには長期の展望と、短期の当面の政策とがある。とくに共産主義には、搾取なき理想社会の実現という高遠なる大方向(路線)があり、毛沢東は、この高遠なる理想とこれに到達するまでの、あらゆる段階にそれぞれ適応した具体的手段を併わせ用いることのできる、稀有の革命家であった。しかも長期の大方向(路線)と当面の段取り(政策)とは、具体的な同一時点で重なりあうこともあり、そのなかで、どれが大方向でどれが当面の手段かを見分けるという、国家の指導者としてもっとも大切な資質を具備していた。しかし晩年、病気のため頭の働きが弱まって四人組に乗じられ、大方向のテンポを急ぎ過ぎたことは、いかに優れた革命家でも、人間としてありがちなことである。
つぎに毛沢東は、生涯の大半を資本主義反対で生きてきたのだから、一旦、中国共産党が政権をとった以上、その政府が修正主義、官僚主義に汚染されることにたいし、極端な警戒心をもっていた。おそらく当時の党指導者の大部分も同じ考えであったように考えられる。だからこそ文革派が当時の主流になりえたのだ。
そのつぎに、神格化、個人崇拝などの批判についてである。毛沢東自身は、たびたび、自分の名を人民公社や都市の街路などのうえに冠してはいけないといっていたし、また自分の誕生日を公式に祝賀することはもちろん、誕生日を広く知らせることすら許さなかったというほどだから、かれがいかに個人崇拝や神格化を忌み嫌っていたかがわかる。がんらい個人崇拝などは、崇拝される人がいくらそれを希望しても、まわりにそういう雰囲気が生まれなければ、そういう事態が生ずることは不可能である。毛主席紀念堂を造営したり、人民大会堂に肖像画を掲げたりしたのは、まさか毛沢東の指図によるものとは思われない。
また最近の毛沢東批判のなかに、高級指導者の任期の終身制は、あたかも毛沢東の封建性が然らしめたものと思わせるような節があるが、むろんかれにも封建的な遺風が皆無ではないかもしれないが、これもやはり中国という社会全体の風潮のなかでのことであって、マルクス主義革命家のかれは、人びとの意表に出る文革の発動によって、旧社会の思想や風俗習慣を除こうとしたくらいだから、封建的素質より革新的素質のほうが、かれの本領とみるべきではなかろうか。この点については、華国鋒主席も、かれの晩年は病気のため、「話すことも動くことも困難だった。『四人組』はこれを利用して陰謀活動をすすめた」と述べているし、また全人代常務委員の陳逸松氏は、野村立大教授の質問に答えるなかで、「ある人物が死ぬまで、あるいは打倒されるまで、あるポストにいなければならないということは、ある意味では悲惨なことだ」と述べている。
マルクス主義の革命家毛沢東と日本の「万世一系」の天皇とを比べるのは、いささか非常識の誹りを免かれないかもしれないが、わたしどもからみれば、この二人はともに神格化された人物である。ただその人間回復は、一方はその死後、あれこれの誤りを批判された結果であるが、他の一方は国を亡国の瀬戸際まで突き落とし、人民を困苦のどん底に陥れて、その功罪は比較にならないのに、ただ権カの座からひきおろされただけで、現在もなお半神的栄誉と尨大な富をわがものにしている。これが社会主義と資本主義の相違かと、ただただ感嘆せざるをえない。
いまひとつの問題は、現代化の問題である。この問題を一番早く提起したのは毛沢東であるが、わたしの思い過ごしかもしれないが、批判者はかれの存在(日本流にいえば毛沢東の影)が現代化を阻んでいるかのような印象を作り出している。現代化が人民の圧倒的支持を得ているとき、毛沢東が現代化を阻害したかのような印象を作り出すことは、毛沢東のカリスマ的影響を抹消するための、巧妙な手段であると言われてもしかたがない。
かれは、主席として中国共産党を長期間指導した。その非常に長い期間に、当然非常に多くのことをやった。そのなかで、神ならぬ生身の人間として、幾多の誤りを犯したことは、一九七九年九月二十九日、中華人民共和国成立三十周年祝賀集会におげる葉剣英全人代常務委員長の演説のなかにも、また最近ユーゴ紙の質問にたいする華国鋒主席の回答のなかにも、述べられている。毛沢東自身、一九六二年のいわゆる七千人会議(拡大中央工作会議)の席で自己批判をしている。
しかし最近、毛沢東批判の調子が高まるにつれて、かれの誤りを指摘する決定が、次からつぎえと出されてくる。批判は非難に変わる恐れもある。これでは神格化を否定し、誤りのない人間はいないといいながら、全能の神を基準として、人間の業績を批判することになるのではあるまいか。とくに功績はかれひとりのものではないといいながら、悪いことはかれひとりの誤りのようにいうのは腑におちぬ。
なおこれに関して起こるいまひとつの疑問は、中国共産党第十一回全国代表大会四中全会で、「修正主義防止」という毛沢東の文革発動の動機そのものまで否定し、修正主義の元凶として批判されているソ連は、今日社会帝国主義となり、現在はその言葉も使われなくなった。しかしソ連は今日も中国の主要な敵国である。まさか毛沢東の文革理念は、国内では誤りであったが、対外的には正しかったということではあるまい。もしいまの中国共産党指導部が、ソ連にたいする過去のイデオロギー対立を、然るべき理論をもって改めるというなら、それもよかろう。
しかし中国が、現在アジア・アフリカの発展途上国にたいするソ連の行動を、なお覇権主義とみなして、反覇権を最大の世界戦略としている以上、「中国は、なぜソ連を主要敵国とする態度をとり続けるのかを、理論的に説明する課題を抱え込んだことになる」(『読売新聞』の丹藤特派員)であろう。
八〇年代は、世界のいずれの国も、安易な展望をもってはいない。とくに中国にとっては、誰れがみても、内外ともに厳しい局面が待構えている。わたしがもっとも恐れるのは、万にひとつも毛沢東批判が嵩じて、中国の国内世論の分裂にまで発展し、四つの現代化に必要な中国人民の団結に、ひびがはいるようなことになっては、それこそ大変だと思うからである。
(この項は、一九八〇年十二月執筆)