3 連日連夜の死闘
目次 |
三月二日の襲撃 |
重傷者の搬出も妨害される |
地裁決定に涙す |
◎三月二日の襲撃
協会は暴カ、監禁、封鎖によって、本部としての機能は止まってしまった。
彼らのス口ーガンは、
「敢然とたたかい、敢然と勝利する」
だが、まだ勝利することができない、その焦りが、彼らをいっそぅ凶暴化させた。
善隣学生会館の内部構造は、一階は、玄関を人ると正面に口ビー、そして事務室、廊下を左に行くと突き当たりにわが協会本部事務所がある。
廊下の右側には、日中学院の図書室がある。学院の教師には光岡玄ら毛派がいたが、院生は協会の立場を支持する人が多かった。現在東京都・文京区議会の小竹議員もその一人であった。
玄関を入って逆に右に行き、突き当たると、華僑が経営する「中華書店」があるようだ。「ようだ」 というのは、私はここに入ったことがないからだ。紅衛兵たちの陣地だ。入れば暴行をうける危険性がある。
経営者は華僑で激烈な毛派の闘士だ。二階には一般の商社もあった。
集団的暴カ行為だけで、件数二百五回に及ぶ事件の発生は、多くは協会本部入り口附近で、他は一階の玄関の内外、便所であった。
華僑学生は三ー四階に寮がある。私はここに上ったこともない。
すべて彼らは三ー四階から降りてきて、事件をおこしている。
「日共修正主義」―彼らは私たちを指して、まったく的外れな呼称をつけてくれたわけだが、その「日共修正主義」が、つまり私たちが、
「中国人学生を襲った」「反中国の流血事件」
をおこしたとデッチあげ、全国でデマのビラを配布し、北京放送も人民日報も大々的にデマ報道をする。その事件のすべては、わが協会への彼らの襲撃によっておこった事件である。
こんなひどいこともあった。
事件発生から三日目、華僑紅衛兵らは前日につづき玄関ロビーを固めていた。
この朝も、私たちの安否を心配して本部を訪れてきた協会員が、玄関で乱暴を受けた。
事務局員はずっと、便所にいっていない。バケツに用をたしても限度がある。
華僑学生ら大半が食事に行った、その隙をみて、森下幸雄事務局次長が便所へ出た。だが、紅衛兵は早かった。十数人が立ち塞がり森下さんに、前横から撲りつけ突き倒した。彼は倒れ意識を失った。
「危ない!」
ただちに数人を事務所からだして、彼を救い、担ぎこんだ。
顔面蒼白だし、
「右眼が見えない」
と叫ぶ。
ただちに代々木病院に連絡をとって、医師と看護婦が玄関に急行してきた。だが入り口で妨害され、中に入れない。沖会館事務局長は、
「いまは危険だ」
と入れようとしない。石川、武井両常任理事らが激しく会館側に抗議した。電話で私は、
「戦場でも赤十字だけは特別だ、ここは一体なんだ、医師を入れないのか」
と入館の要求をした。一時間後にやっと入館ができた。
事務局内で応急手当していると、富坂警察署の署長が協会の入り口にやってきて、
「責任者に会いたい」
と言ってきた。私は入りり口に出ると、
「君たちがまたやったのか」
と凄いけんまくである。
「そんなこと、だれが言うのか!?」と、糺すと、ちらと華僑のほうを指さした。
「じゃ、誰がやられたか確認しなさい。入りなさい」
と森下部長のところに連れてきた。署長は森下さんがひどい血まみれの怪我で寝ている姿をみて、
「うーん」
とうなって、あとはぶつぶつ言って出て行こうとした 誰からか、
「しっかりしてよねぇ」
と声をかけられ、署長はバツの悪い顔をして足早に去った。
◎重傷者の搬出も妨害される
それから一時間後、やっと病院へ運ぶために玄関まで行くと、数十人の紅衛兵らに取り囲まれた。
口ぐちにののしり、怪我人にまで手をだしてくる。私も玄関まで行きかけると、事務所の中に事務局員に引っぱりこまれた。
「こんどは事務局長が、彼らにやられたらどうするんですか?!」
まったく腹がたつ。便所へも行けない、食事もとれない。
ケガ人の治療まで妨害される。もぅ三日間も外の空気を吸っていない。
「もうがまんできない」
午後一時四十五分、スキをみて事務局員が集団で会館事務局に、
「会館への出入りと便所の安全確保」
という最低の要求の申し入れ行動をおこなった。
華僑紅衛兵が襲いかかって来た。
頭から水をかけられ、棒などで撲られ数名の負傷者をだし、協会事務所に引き返した。暴徒がこれを追って侵入しよぅとしたがこれは阻止した。
食事がとれていない私たちのために、協会東京都連の人たちや支援の人たちが弁当の差し入れをしにきた。それにたいしても暴徒が襲いかかって妨害した。
やがて華僑と、正統本部員、暴カ団員らしき者、学生の暴カ集団もまじえて、約百数十人が手に手に棍棒などをもって、協会本部に押しかけて来た。かれらは電柱のよぅな木材で「ドスン、ドスン」と、脇会の鉄製ドアを打ち破ろうとかかってきた。
分厚い鉄のドアも大人きく曲がりへっこんでくる。またまた私たちは木箱、机などあらゆる物をドアの内側に積み上げ、侵入の阻止をはかった。
暴徒らは侵入をあきらめたのか、今度は会館一階にある日中学院の机、教壇、本箱を勝手に、運び出し、協会のドアの外側に積みあげた。
外から完全な封鎖作戦をとった。
裏口もすでに、一日未明から完全に封鎖されている。
前後とも完全に封鎖された。
「彼らは命をかけても追い出す」
叫び、外は騒然としている。
警察は私たちの救出を拒否しつづけている。私たちは疲労しきっている。だが、事務局内の十八人の生命の危険は、自力でとりはらう必要がある。
私たちは、腹を固めた。仲間たちの顔も、必死の面持ちで決意を固める。
北京からの報道によると、一月には劉少奇国家主席夫妻が紅衛兵に引きだされて糾弾されているらしい。あとで聞くと彭真、陳毅、陸定一、羅瑞郷、周楊、田漢らも同様で、激しい暴行をうけ、他でも死者やケガ人が出ているようだ。
われわれも危ない。私たちは、事務所を封鎖している表入り口、外側のバリケードの取り除きにかかった。
高さ三メートル、厚さ三メートルの大掛かりなバリケードである。
紅衛兵らはこの上に乗って竹槍、棍棒で所かまわず、力まかせに突いて来る。鉄製の椅了を投げてくる。ホースで水をかけてくる。周囲に血が飛び散る。
ケガ人が続出だ。一人は、右顔面下をえぐられて重傷だ。扉、壁、廊下に血が散って流れる。このときに、重傷二名をふくむ負傷は十数人でた。ほとんどが重傷だ。
危険だ、しかし途中でやめると、おしまいだ。
みんなで考えた、こんどは机の脚に口ープをくくり付けて引き入れる作戦をとってみた。これのほうが安全だ。
ひとつひとつ引き入れた、みんなで引き人れた、上に乗って竹槍をもった突撃隊の華僑紅衛兵は、下に落ちる者もいた。
◎地裁決定に涙す
緊急事態の連絡をうけた都内の会員、支援共闘の労働者、学生らが会館周辺に続々と集まってきた。『赤旗』新聞の報道で知って駆け付けて来た人もいた。一般新聞は無視するか、ほとんどはまともに報道しないらしい。
またしても機動隊が出動してきて、心配で駆け付けてきた人びと、協会員や支援の人びとの排除にかかりだした。
会館内では協会側の負傷者が、続出だ。危険防止のへルメットをかぶって、封鎖撤去作業に全方をあげた。長時間だ。ついに午後四時、撤去をやりどげた。
機関紙『日中友好新聞』編集部員の腕にも、原稿用紙にも、赤い血がこびりついていた。事務局員や支援の仲間の顔、シャツ、服に血がくろぐろと付着している。
攻撃に失敗した暴徒たちは、なおも通路で暴れ廻っている。
がまんできない事務局員は、暴徒たちを追い払いにでた。そこに機動隊がやってきた。そして暴徒を守りにかかった。
私は思った、これは相当深いところで、政治がからんでいる。首都東京で昼夜の別なく、これだけの無法をおこないながら、警察は何ら手をつけない。私たちが一一〇番をしても放置される。
この日は重傷の三人が、代々水病院に入院した。
二十八日いらい、この無法に直面して歯ぎしりをかんでいた弁護士や共産党の国会議員、都会議員が、私たちを救うために奔走してくれていた。他党派の議員はこない。一日夜、小島法律事務所の坂本修、山根晃弁護士ら、また松本善明衆議院議員、東京都議会の川村、茶山、山崎、大沢の各議員がかけつけてきて、弁護士とともに抗議や要求を繰り返した。
「協会員を監禁している暴徒を解散させ、内部の人たちを救え、そうでないと心配してかけつけてきた支援の人たちも帰れないではないか」
午後、東京地方裁判所にだした華僑学生を相手どった、
「一階の日中友好協会事務所の占有使用妨害禁止」
「公道から事務所、便所への通路である玄関、一階廊下の通行禁止」
の暴徒の妨害排除の仮処分が認められた。
仮処分決定がでて、執行吏によって便所、玄関へのバリケードも撤去されることになった。
その夜、協会本部内で報告集会を開いた。
火事跡のような事務所内で、坂本弁護士から仮処分決定の報告があり、何十人もの役員、事務局員、協会員が立って聞いた。何人かの目に涙が光った。支援共闘の人たちも喜んでくれた。
「死地から救われた」思いだ。
日本共産党の岩間正男衆議院議員からも、見舞いと激励のあいさつをうけた。これにたいし笠原協会会長から支援のお礼を述べ、そして、
「日本の人民の立場に立った自主、平等相互の内政不干渉の真の日中友好のためにがんばりたい」
と決意を表明した。
笠原会長は健康の異常を意識されていたのに、会館にきてみんなを激励し、自らも暴徒の妨害を体験した。その笠原さんが一か月もたっていない三月三十日、胆石手術後の尿毒症を併発して病死された。
ある日、先生のの顔色が悪いので病院行きをすすめたことがあった。しかし、先生は、
「私よりもあなたがたのほうが悪いよ」
といって笑っていた。先生の急死に、私たちは大きなショックをうけた。
もしこうした事件がなかったら、もっと治療に専念できたのに、とも思った。
四月一日、豊島区の日本キリスト教団池袋西教会で告別式をおこない、協会から平野義太郎副会長、和田勉理事長と私が参列した。ところがこの葬儀にさいしても、葬儀告知案内を破るなど華僑学生らの妨害があった。
(橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」第1章 東京でおこった文化大革命、日本機関紙出版センター、1996年)