目次 |
孫平化が暴徒激励 |
襲撃はやまない |
貿易商社員も動員されてくる |
地下道 |
西北万吉の激励 |
反骨の貿易商社があった |
◎孫平化が暴徒激励
二日夜、廖承志東京連絡事務所の孫平化首席代表がが,会館側の暴徒に対し、見舞いと激励にやってきた事務局員の岩崎幸雄さんが、
「橋爪さん、孫平化らしい人物がきている」
と知らせてきた。やっぱりそうだった。破れたガラス窓のスキ間から彼の顔を見た。
同夜、会館内で紅衛兵らの会議があったといわれているが、この会議には三好一、社会党の広沢健一代議士が出席した。黒田、穂積といった社会党幹部だけでなく、他の幹部や国会議員も、この事件にかかわっているのである。
機動隊は二十七日まで、会館内に常駐した。
仮処分以後は、大規模な監禁、破壊行動に一定の歯止めがかかった。
もしこの決定がなかったら、もっと激しい事態になっていただろぅと想像ができる。それでも無法を当然とするかれらである。玄関通路などには全国動員の暴カ分子、商社員が二十四時間たむろし、私たちの通行の自由も、協会事務所へ出入りの目由は長期にわたって脅かされた。
彼らの目的は日中友好協会本部の、占拠であり、友好運動の妨害であった。
そのため私たちは、二十四時間本部防衛をつづけざるを得ない。
年末年始といえども体制は崩せない。三回の正月はこの惨憶たる事務所内で迎えた。
◎襲撃はやまない
四日夜、安保破棄実行委員会主催で、近くの石楽川公園で干渉と暴カに抗議する三千五百人の集会とデモがあった。私たちへの大きな励ましとなった。その後もここで何回か集会が開かれ、全国各地でも開かれた。
以下三月の主な事件である。事務局の日誌から抜き書きしてみよう。
[六日] 暴徒数名、事務所裏入り口に押しよせ、丸太棒でガラスをたたさわり侵入図る。これを阻止。紅衛兵がつくった反修路による検問に抗議。一、二階の一般商社が会館にたいし壁新聞撤去、営業妨害させるなと申し入れ。紅衛兵ら商社にたいし「協力しないと追い出す」と脅す。
[八日]協会事務所裏口に華僑学生おしよせ丸太で乱打、ガラス破壊。夜、来訪の協会員三人、会館西側道路で覆面の華僑学生らしき者数名に襲われ、会館内に連れ込まれ暴行うけ、一人頭部裂傷五センチ、一人足に打撲傷。
[十三日]「東京地裁は華僑学生と会館にたいし、「日中友好協会が二階の倉庫と会議室及び地下倉庫への通行と使用を実力やバリケードで妨害してはならない」と仮処分命令を出す。
一、二階にある倉庫、事務所は暴徒に荒らされ無残な姿だ。
[十四日]午前一時十五分ごろ、協会事務所裏口を数人が棍棒で乱打。投石あり。午後八時四十五分、裏口華僑学生が乱打、椅子を二階から投げおとし、警官がかけつけたら、二階から水をかける。裏口扉乱打。
[十七日] 玄関ロビーに日本共産党書記長の大きな似顔絵と悪口書いた看板だす。会館へ撤去要求あり。守島理事長「理事会として大変と一致。華僑総会副会長に連絡した。一日まってくれと言った」と語っていた。
[十八日]こんどは華僑学生は毛沢東の肖像を新しく取り換え。夜、地下ホールで外部勢力ふくむ百余人の集会。外出のため通りかかった事務局の西村郁子さんと柳瀬事務局員を華僑学生ら取り囲み、日中学院の教室に連行して腹部、顔面、尾てい骨など撲るなど二時間も暴行働く。引きつづき彼らは、玄関口ビーで気勢。協会事務所に「出て行け!」と押しかけて来る。暴徒のなかに「正統本部」の三好事務局長、島田政雄常任理事、華僑総会の陳混旺副会長あり。
[十九日]毎朝七時、毛沢東語録の集団朗読あり。通りかかった協会支援の人暴行うけ、三人負傷。
[二十二日]「反修路」前たむろの五〜六名、用便中の協会の大内田事務局員ら三名に襲いかかり暴行。
[二十七日]それまで常駐していた機動隊は、協会員に向かって「今度くるときは皆つかまえるからな」と言って引き上げる。なんという警察だ。被害者に暴言を吐くとは。
◎貿易商社員も動員されてくる
日中貿易の友好商社の社員たちも、華僑学生の防衛と称して、動員されてきた。
[二十八日]地下の協会倉庫に事務用品を取りに行こぅとした事務局員、反修路で妨害され暴行うける。二人負傷。「反修路」前には動員された日中貿易商社員が赤い腕章をつけて昼夜、数人が座りこむ。
協会員は便所へ、一、二人では危険だ。暴カ行為を放置してきた会館事務局は、協会にたいし、協会常務者以外の者の滞留、宿泊させるなと申し入れあり。われわれは会館の無責任のため、要因配置を必要としているのに。会館の申し入れは不当、暴徒に加担したもの。
[二十九日]午後三時、協会員の名前をかたったニセ文書を口ビーに貼りだした。内容は、三月二十八日に華僑学生の壁新聞を破ったのを日中友好協会事務局員が認めたとしたニセ物、謀略文書である。
協会はこれを「デマ文書」であることを暴露した告知書を貼る。
華僑ら、やにわに三十人が協会の告知書を引きやぶり、協会に押しかけ、
「命は保証しないぞ」
と叫んで協会入り口にやってくる。これを阻止する協会事務局員に暴カ。
午後十時ごろ、陳中華書店社長と学生ら七十余人、またまた、
「生命の保証はないぞ」
と押しかけて来る。二時間にわたり侵入阻止のためがんばる。その後十数回の波状襲撃あり。
この日は夕刻より、日中学院教室、中華書店など外部勢力結集。連日、集結あり。
なお午後四時五十分、協会裏側に彼ら数回にわたりビンを投げこむ。
連日の襲撃がくりかえされた。
そして会館理事会、事務局が暴徒側に加担しちづけた。華僑学生と、毛沢東一派のの「正統本部」会員らは、
「敵が大きいときは攻撃せず、敵の小さいときに一挙に攻撃して殲滅する」
とした毛沢東戦術の盲信者であったから、かれらはこちらの人員の状況を監視し、手薄とみると一挙に襲ってきた。
一定の変化はあったものの、こうして三年近いあいだ、善隣学生会館内の事件はつづいたのである。
◎地下道
私たちはしばらくして地下の食堂の好意で、協会裏口から食堂に通じる通路に降りて、食堂に入り、ここから外にでる比較的安全な道を確保した。
これをべトナム戦争なみに「地下道」とよんだ。私は玄関に暴徒の多いときは、ここから外に出ることにした。事務局の斉藤さんや大内田さん、瀬谷さんらから、
「事務局長は正門から出たら危ない」
と再々言われたことがある。彼らも何回か負傷している。
玄関の口ビー、反修路に動員されたいわゆる友好商社の社員たちは、全国から動員されてきた。
私の知っている和歌山の商社員が後に、
「無理に動員されて座り込みさせられた。橋爪さんの姿を見ました」
と告白していたことがある。
和歌山県の日中友好協会は、団結と統一をつづけた組織であった。
しかし中国の甘栗と漆に依存する業界は、輸入がストップすると死活問題となった。
私たちも引き留めるわけにはいかない。米田貫眞、坂口平夫、佐古田武士さんら中心メンバーとと相談し、脱会を認めた。
ところがしばらくして、社会党県議の協会役員からの工作があって脱走派に走り、さきの業者を加え「正統本部」の県組織をつくった。全国でもっともおさお旗上げだったらしい。社会党県議は脱走すると、自らも友好商社をつくって中国側の特別の恩恵に浴したという。全国で協会から脱走した会員には、こうした利権にありついたケースが多い。
善隣会館行きの動員を拒否した商社は、貿易がとめられる。暴力に積極的に加担した者は、功績をたたえられ取引が増えたといわれる。
「ガラス一枚割ると原料炭五千トン」
という話が、商社のあいだでささやかれた。
呉山貿易の長谷川敏三というかつて協会役員で、その後「正統本部」役員になった人物がこれで利益を得て、他の商社をも扇動したしいう話も流れた。
善隣会館事件発生から一年ほどあと村上事務局員と、私が、会館と小石川サッカー場の間の道路を地下鉄線に向って歩いていた所、突然、襲われて村上さんを殴って犯人は逃亡した。このように、付近の道路で暴力を受けることも多い。
桜井事務局員は、脳天の上から、丸太か鉄棒で突かれ、重傷を負った事件があった。彼は、
「なにかの記念の日であったと思う」
といまも、そのことを時々語っている。
事務局にいた最年長で中国帰りの小久保さんから十年ほどして、私に電話があった。彼は、
「一生で、一番忘れられないことだった」
と述べていた。大木事務局員から時々電話があるが、
「ああいうことは、またとないだろう」
と語っていた。
他の事務局の全員も一人のこらず、何回も被害をうけた。
西村、法村、横田、今泉さんら四人の女性の事務局員がいたが、彼女らも、見さかいない暴力をうけている。河西、摺出、北川、若狭、森徳という事務局員らもケガをした。
このたたかいのなかにいた染谷三郎事務局員は、いまは東京連合会の理事長として活躍している。彼も何回も負傷をした。私も廊下で、コンクリート壁に、思いきり突き飛ばされたときの後遺症が残っている。事務所で深夜仮眠中に、窓ガラスを破ってこぶし大の石を投げこまれ、ガラス破片で負傷したこともある。
笠原会長、和田理事長は玄関で入館を妨害されこれこづき廻された。協会副会良の櫛田ふきさんら日本婦団連が現地調査にきたこともある。櫛田さんは、驚いて声をあげた。
「じつに怖いところだね、よくがんばられたですね」
笠原さんの後、会長に就かれた柳田謙十郎会長も、このような事務所に何回も足を運んでこられた。
常時、本部に応援にきていた東京都の事務局長の鈴木定夫常任理事、千代山区の大田事務局長、東京都連の出田孝一さん、中村亘さん、矢崎新ニさんら,さらに協会本部に地方から派遣されてきた役員、会員らもほとんど脅迫、暴力をうけている。
協会支援の共闘参加の労働者、青年、学生の負傷者もおびただしい。
太田さんは、一九六七年(昭和42)の秋から本部に赴任して来た。島根県の出身で共同通信に合理化反対闘争に参加した労働者出身だ。いまは本部事務局長となって活躍中の人である。
こうしたたたかいを生命がけで泊り込んで支援してくれたのが、支援共闘の人たちであった。
また、全国で米ひとにぎりの支援運動がひろがり、食料、毛布などが本部に届けられ、東京都連の婦人部が炊さ出しをして炊き出しをして支援してくれた。
おにぎりの白さとうまさは忘れられない。新日本婦人の会の会員の差入れもあいついだ。
◎西北万吉の激励
支援にきていた会員の回想談が、いまも機関紙などにでることがある。
東京都連の北原知明さんは、当時のことをつぎのように語っている。
「東京都連は、本部に近接していたこともあり、役員、活動家、支援の人たちが連日、事務所に詰めて対応に追われた。机、椅子など片付け、コンクリートの床の上に毛布、布団などを敷いてゴロ寝して防衛をした」
また北海道の井上司さんは、
「私が善隣会館に行ったのは、蛮行の後のことですが、そのすさまじい暴行の傷あとは、壁にも、窓枠にも残っていました」
との感想を北海道の協会『二十五年史』で述べられている"
外国の干渉と直接支援で、引き起こされた首都東京での事件である。
しかも日本の警察が日本人を守ることを拒否する。管理責任のある会館当局が暴徒に加担する、という異常づくめだ。公党である社会党が暴徒側についたことも異常だ。
自民党も横をむいていた。しかし、協会の顧問をしていた自民党の和歌山県選出の山口喜一郎衆議院議長や、保守系の代議士、市会議長、自民党の県議会議院から激励をうけた。
「人の世に熱あれ、人間に光あれ」
と水平社宣言を起草した西北万吉さんからも、激励の手紙をいただいた。
この人は社会党員で、私は親しくしていただいていた。善隣闘争が一段落ついて帰郷したとき、自宅立ち寄ってお礼を言った。日中問題では、部落解放同盟の役員で毛沢東の側についていく人も多かった、そんなさなかであった。
私たちはこの事件の報道を、マスコミ各社に切望し。各社の記者を招いて本部内を公開し、台風と洪水が一緒にやってきたように、めちゃくちゃに破壊された実態を見てもらった。法務省内で記者会見をし、くわしく実態を説明もした。
しかし、ほとんどとりあげられなかった。
マスコミが沈黙し、あるいは歪曲した報道しかしない。華僑と脱走派は、黒白転倒のデマビラを洪水のようにまきちらす。
北京からは、日本向け上北京放送が、デマ放送をくりかえす。「日共修正主義者」や民青が襲ってきて中国人が血を流したなどと、ナチスばりのデマ宣伝がつづく。
こうしたなか、真実の報道は『赤旗新聞』だけである。迫害をうけ、明日はどうなるかわからない者にとっては、涙がでるほど有り難かった。
私たちは、『日中友好新聞』の発行を必死で継続した。困難ななかでも週刊発行をつづけた。暴力の荒れ狂うなか、編集部と機関紙部は必死だった。編集は小山さん、すぐ彼は井上紘一編集長を中心に、機関紙経営部は小久保謹輔、金田英門さん、そして染谷さんらが奮闘して、全国に新聞を送りつづけた。みんな暴力でケガをしたが、屈せずがんばった。
そして私たちにとって忘れられないのは、自由法曹団所属弁護士の献身的な活動に、支えられたということであった。
◎反骨の貿易商社があった
十年ののち、最後まで担当弁護士として活躍された山根晃弁護士は、協会の機関紙でつぎのように語っている。
「三月一日、私は小島法律事務所から坂本、蓑輪、塩島の三人の弁護士と駆けつけた。
警察、会館に不法監禁をやめさせるよう申し入れたが、ききいれない。
会館の内部の様子がわからない。寒いなか一時半まで会館の外で立っていた。
そして二日に必死の思いで仮処分申請に走った。だが会館内の建物の内部が見ることができない。そこで協会と電話が通じたので、電話で説明を聞いて図面を書いた。そして東京地裁から仮処分がでた」
山根弁護士は、ひきつづき第二、三次仮処分、会館の明渡し訴訟、会館の仮処分事件等に取り細み、法廷でのたたかいをつづけてきた。
「われわれが日中友好を願い、思想・信条の自由を守る立場から、不法な暴方を徹底的に追及してこいくなかで勝利しました」
と喜びを語っている。
この法廷闘争は、毛沢東思想を踏絵にして労働者を解雇した三元貿易、新日本通商、大安書店などに生かされたそうである。自由法曹団の活動が大きかった。
中国の直接の干渉によって日中関係の貿易商社で、文革路線を支持しない企業は、徹底的な追及と迫害をうけ、毛沢東派になった企業内では、多くの労働者が解雇される事件が続発した。
干渉に屈しなかった零細、中小貿易商社の多くが閉店、転業の憂き目をみた。そんな人たちから、今も年賀状が届く。神戸の影井巳喜雄、大阪の埴谷正雄さんからも毎年頂く。東京で従業員とスクラムを組んで、物品販売で生活してたたかってきた橋本重治さんもその一人。老後は福島県の郷里の三春町に帰り、地域に根をおろされた。毎年『三春通信』が送られてくる。歌集もだされ、こんな歌が詠まれていた。
みちのくの山の墓処に花の咲く秋草の根を植えて来にける
戦後日中貿易促進運動、日中友好運動に精魂を傾けてきた人たちである。
協会の副理事長であった丸一物産社長の立花敬三さんも、その一人であった。
「橋爪さん、頭を屈して、操を売って金儲けをしたくないですね」 といつも言われていた。こうした反骨の友好商社もたくさんいた。
比較的に若い人は第ニの道を選べたが、老齢の人は東京をはなれ、郷里で余生をおくることになった人が多い。
国際貿促地方議連事務局長であった泰平国男さんは、別府の近くから、関西日中貿促の議員だった野口政康さんは、大阪・岸和田市から、時々便りを頂く。
(橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」第1章 東京でおこった文化大革命、日本機関紙出版センター、1996年)