目次 |
社会党の通達 |
正統本部の内部抗争 |
あさま山荘の「毛語録」 |
◎社会党の通達
中国の文化大革命や善隣学生会館事件問題で、社会党の一部幹部が、公然と、中国の毛沢東派や紅衛兵化した華僑学生を支持した行動をとってきたが、党としての公式態度がどうでるか各方面から注目されていた。
党中央本部から六七年(昭和42)五月十八日、「日中友好運動及び善隣学生会館事件に対する党の態度」と題した通達がだされた。これが、一連の問題での党の態度を明確にしたものである。それは党ぐるみ中国側に立つことを明らかにしたものであった。
通達の内容は、在日華僑学生ら暴徒の側に立っているのが特徴で、善隣学生会館事件を、
「中国人学生にたいする襲撃傷害事件である」
と黒白転倒の断定をしている。
「中国と日本共産党の路線のちがいに端を発した」 と、事実を曲げて述べている。
これは文化大革命支持だけでなく、デッチあげの謀略事件に、社会党が手を貸したことになった
この通達に先だって五月十二日に「会って事件の事情を聴きたい」、という社会党本部からの連絡をうけ、協会から和田理事長、森下組織部長、川崎巳三郎常任理事と私の四人が、社会党本部に出向いて、山本幸一副委員長、野々山労働局長、高沢教宣局長と会った。私たちは会談で、すでに協会が明らかにしている通りの真相を具体的に説明した。
ところが社会党がだした通達と、社会党と華僑学生、協会側との個別会談の内容が記された付属資料によると、華僑学生側の主張をそのまま載せ、わが協会の説明については、その華僑側の言い分を正当化するために、作為的に曲げられて紹介されていた。
これは両者の事情を聴いた、として公正さを装うために私たちを呼び、かつ悪用したものといえ、ひどいものだ。
協会の常任理事で、いつも冷静で分析的な発言をする川崎常任理事が、めずらしく語気鋭く、
「社会党のこの通達をみると、一体、何をねらってよんだのかと言いたい」 と憤慨されていた"
早速、協会としての抗議の声明をだした。
川崎さんは戦前、プロレタリア科学者同盟の常任中央委員など歴任、企画院事件で検挙された。戦後は東京商科大学講師などもした経済学者で、この当時は日本共産党の統一戦線部副部長をしていた。戦後の日中友好運動への貢献者である。
社会党の中国追随ぶりは、この通達から、急速にエスカレートしていき、七〇年(昭和45)十一月に訪中した成田委員長を団長とした社会党代表団が、中日友好協会とおこなった共同声明では、
「中国人民が勝利のうちにプロレタリア文化大革命を行い…」とか、
「毛沢東首席を統率者とし、林彪副首席を副統率者とする中国共産党のまわりに固く団結する」
などと文革を大きく持ちあげている。その林彪はのちに毛と対立して、逃亡途中に事故死した。
◎正統本部の内部抗争
暴カ称賛、「造反有理」のよびかけ、毛沢東哲学による「一は二になる」という分裂の論理が、毛沢東にもっとも忠実な組織と自認していた脱走派集団「正統本部」自身を、大きく揺さぶることになった。
六九年(昭和44)三月十五日、 「正統本部」の会議に、脱走派内「造反団」が暴カ学生集団約四十人を引き連れてやってきて暴れ、黒田会長と宮崎理事長ら幹部を十八時間にわたって監禁し、殴る蹴るの暴行を働く事件がおきた。この造反団が要求した内容は、
「貿易であげた利益金の分け前を出せ」
ということであった。さらに四月七日にも暴カ事件がおこり、 「正統本部」の事務局員らが重軽傷を負い救急車で病院に運ばれ、警官隊が出動しておさめる大騒ぎになった。
そしてこうした内部矛盾によって役員間で社会党系、山口左派系が対立し、黒田派、宮崎派に分裂し、それぞれ事務所も機関紙も別にして抗争状態にはいった。これを憂慮した中国側は黒田、宮崎の両トップを北京に別々に呼んで、周恩来がじきじき説得して和解の方向をしめし、両者もこれに従うことになった。
日本の団体が外国の直接の介入によって、組織の在り方を決めるという事自体、きわめて異常なことであった。しかしこれは、協会脱走事件でも経験ずみである。
七一年(昭和46)二月十九日、この両派の仲直りの手打ち式とよばれた「団結勝利のための全国大会」が北京で開かれ、中国から王国権中日友好協会副会長が出席して「大連合して敵にあたろう」と訴えた。この大会には赤松社会党副委員長、浅井公明党副委員長、渡辺民社党執行委員らが来賓として出席した。いわゆる文革支持諸党の総結集であった。
◎あさま山荘の「毛語録」
「日本の真のマルクスレ一ニン主義、毛沢東思想の革命勢力は、すでに宮本集団(注・日本共産党に対し中国側がよぶ)に対し大いに反逆しはじめた。いま、この革命勢力は急速に大きなものへ発展している。ここに日本民族の偉大な希望がかけられている」
これは、中国共産党機関紙『人民日報』の、日本共産党から中国派に寝返った「造反者たち」への激励、扇動の記事である。
こうした中国の求めにこたえて名乗りをあげた「造反者」とは、「日本共産党(山口)左派」を名乗る山口県などにできたごく一部の日本共産党を除名されたグループで、中国の路線そのままを日本にもちこんで、武装革命唯一論とか、反米反ソの統一戦線などを唱えた。中国側はこの集団の幹部を招き、新聞その他最大限にもちあげた。また「山口左派」の文化工作隊として演劇集団はぐるま座」も中国から高い評価を受けた。
さらに中国側は、日本のトロツキスト集団とも呼ばれて来た学生暴力集団の、各地での過激な暴力行動を激賞した。佐藤首相の南べトナム訪問のときに羽田空港で暴れた六七年昭和42)十月の羽田事件について『人民日報』は、
「これらの革命的青年は日本人民の誇りであり、日本民族の希望は彼らにかかっている」
と報道した。また、三里塚闘争なども、
「日本列島に春雷とどろく」
ともちあげた。
七〇年(昭和45)三月の赤軍派の日航機「よど号」乗っ取り事件、七一年(昭和46)二月には、京浜安保共闘と名乗る暴カ集団が栃木県で、銃砲店を襲い銃を強奪した事件などが各地で発生した。
これらも毛沢東の、
「鉄砲から政権が生まれる」
とした暴カ革命思想に影響されるところが大きかった。
七〇年(昭和45)四月に訪中した日本の貿易七団体と会見した周恩来は、「よど号事件」について、つぎのように語っている。
「…すばらしいことです。日本の修正主義者は、彼らをトロッキストだと悪口をいっているが、彼らは行きすぎた出来事は、すべてトロッキスとか、アナーキストとか言っています。青年運動はその初期においてはどうしても過激になりがちです。もしそうでなければ革命などはとてもできないでしょう」
七二年(昭和47)二月には、「連合赤軍」を名乗る暴カ集団が、長野県軽井沢町にある「あさま山荘」に押し入り、警官隊と銃撃戦を演じ、警官三人の死者と、十六人の重軽傷者をだす事件が発生した。
そしてこの暴力集団が、仲間多数を「総括」の名で処刑していたことも判明し、戦慄すべき事件として世間の非難を浴びた。この組織の首謀者のひとり森恒夫は、その後の供述のなかで「総括」をしたのは、
「毛沢東思想の徹底のため…」
と述べている。また永田洋子は、
「毛沢東思想に傾倒してこうなった」
と自白している。
彼らのアジトからは、北京や善隣学生会館の紅衛兵が身につけているのと同じ、赤表紙の『毛沢東語録』や『毛沢東選集』が多数発見された。カンボジアのポルポト派の小型版であった。ポルポト派は毛沢東の文革追随の落し子だ。
このように中国の直接の扇動のもとに、国内の毛沢東派の積極的参加によって、暴力事件が全国にひろがっていった。東大紛争にもその影が、色濃くでている。
(橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」第1章 東京でおこった文化大革命、日本機関紙出版センター、1996年)