7 干渉下の友好連動

目次
太陽のない部屋
沖縄代表を迎えて
群灯奔流
日本の切り絵――創作活動
不再戦の石碑
本部襲撃事件の終幕

 ◎太陽のない部屋

 善隣会館内の協会本部では、連日の襲撃で南と西側の道路に面した窓は、投石で完全に破壊されて、ほとんどガラスがない。しかし、さらに投石がつづいた。

 火をつけたバルサンを投げ込まれ、寒中、事務所内に放水もされる。

 これを防止するために、厚い外材の板をはり、鉄板もはった。電源をきられ、停電すると真昼でも、ローソクをつけないと仕事ができない。

 「太陽のない部屋だ…」

と誰かがつぶやいていた。

 六八年(昭和43)の二月下旬、襲撃事件後初の全国大会が東京で開かれた。議長席の兵庫の山本挌也、秋田の高橋与一郎、高知の岩村洋子さんらは、声を大にして、

「日中本部を見ていない人はぜひ立ち寄って帰って下さい。支援物資もどんどん送ってほしい」

とさかんに訴えていた。

 中国の干渉のひどさは、事務所に一歩入れば、一目でわかるからだ。

 善隣学生会館の近所には水戸家の名園後楽園があり、後楽園球場、サッカー場がある。

 陽春になると西側の道路を散歩する人の姿が、窓の割れ目からみえる。夜間になると、球場から歓声が聞こえてくる。

 私たちには外に出る自由、散歩の自由がない。一年たっても用件で外出することも自由にできない。外出のときは周囲を観察して復数で出る。無用心に玄関にでると、すぐ暴力が待ち受けている。会館のすぐ外で暴行をうけることも多い。

 会館内外は、日本国の憲法の存在を無視した無法、無政府の社会であった。

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 ◎沖縄代表を迎えて

 しかし、外の世界は激動していた。

 六七年(昭和42)四月十五日には、美濃部革新知事が誕生した。

 社会党があの状態で、よく革新共闘ができたと思った。そのときは社会党中央委員会は、日中問題についても、黒田代議士らとは違う態度をとるのでないか、と希望ももった。しかしこの期待は当たらなかった。

 一か月後、社会党は善隣会館事件の被害者であるわが協会を加害者に仕立てた「通達」をだし、毛沢東一派寄りの姿勢を党として鮮明にしたのである。

 私は文京区の「明るい会」の「呼びかけ人」だったが、選挙中は危険で顔をだすこともできなかった。選挙中は、協会への来訪者が減る。それが暴徒にとっては襲撃の好機とみる。

 「相手の敵が小さい時は攻撃をする」

これは毛沢東流の戦法だ。

 六七年(昭和42)暮れには、南べトナムで解放戦線が南全土の五分の四、人口の三分の二を解放した。六八年(昭和43)一月には「テト攻撃」がおこなわれた。

 私たちにとっては感動的なニュースだ。私たちも「外」に打ってでる方針をかかげて、六八年二月に日中友好協会の定期大会を開いた。

 三日間にわたる大会であった。

 「明治百年」にからんで、アジアでの日本軍国主義の侵略を美化することは許せないとする方針と「日中不再戦運動」の強化、べトナム支援、日台条約破棄・日中国交回復促進運動をさらに強くすることをきめた。

 この大会はまた、沖縄の無条件祖国復帰の要求運動の強化を確認した。

 前年十一月には、十一万人もの沖縄県民大会がひらかれるなど、県民のたたかいが高揚していた。大会には沖縄初代表の、伊波広定さんが出席されて大きな拍手で迎えた。

 前年の襲撃事件の最中に笠原会反の死去の報に接して悲しい思いをしたが、後任に著名な哲学者の柳田謙十郎先生が引きうけられ、大会で選出された。先生は日中友好歌曲「東京―北京」をつくったときの、提唱者であった。

 協会の会長はその後、柳田さんのあと、京大の名誉教授でいつも和服姿の重沢俊郎さんが就任された。著書に「孫子の兵法」がある。「科学は謀略に勝てるか」を問うている。

 あと経済学者の副島種典さん、つづいて和田一夫さんに引きつがれ、さらに現在の立命館大学名誉教授の山口正之さんと代わった。理事長は和田さんのあとを、中国文学研究家の伊藤敬一東大教授が受けつがれた。

 柳田会長、和田理事長の頃である。襲撃の続くなか、協会活動の本来の仕事を強めようと、協会の役員は全国各県を、襲撃事件の真相報告をかねてまわった。私は山口県にも行った。本部の会議では山口の河島哲夫、守屋宏さんらの報告はいつも厳しい様子が伝わってくる発言で、参加者の心をひきしめたが、現地の空気も緊張していた。

 山口での報告集会に出席するため駅に着くと、心配して青年たちが迎えにこられていた。

 「何もなかったですか、事務局長さんが一人で歩くのは危険です」

 山口の帰りは鳥取と島根に立ち寄った。鳥取で宇田川満さんと会い、島根で野津保夫さんと会った。野津さんは六六年(昭和41)の本部脱走事件のとき、脱走者とたたかい留まった一三人の常任理事の一人で、かつて八路軍の自動車隊にいた。

 兵庫県連に立ちよると大芝会長、山本理事長らから慰労していただいた。ここでは、中村九一郎会長、中島、郡司という事務局の中心人物が脱走した。

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 ◎群灯奔流

 協会がこの干渉と妨害のなかでも、平和、日中不再戦運動など、多彩な活動をたやさなかった。そのひとつに、平和灯ろう流しがある。

 いまも兵庫の武庫川、和歌山の日高川の支流、香川の琴平町など各地でつづいている。

 なかでも毎年八月十五日の琴平町、金倉川の「戦争犠牲者慰霊・平和祈願灯寵流し」は、

「橋爪さんが最初の提唱者だった」

と地元では語っている。

 いまでは町ぐるみの催しとして続き、金毘羅さんの町の風物詩として定着した。

 その経過を書いた篠原国文著『群町奔流』が出版されている。

 篠原さんは、灯ろう流しの推進者である。戦前の早稲田大学で大山郁夫の門下生、画家柳瀬正夢らとも交流があった。戦後の協会活動の草分けの一人で、現在九十歳しかも現役だ。このころ愛媛県では曽我武雄、菅原輝雄さんらが活躍していたが他界され、あとを坂東啓司さんが継いで事務局長の任にある。

 お隣りの高知の活動は古い。戦後の草創期には帰国者の又川千秋さんが事務局の中心となり、小田昭英、岩村洋子さんに引継がれた。岩村さんは事務局長としては全国の最古参の一人だ。大阪の「垣真水子さん、和歌山の熊野美鈴さんとともに、占くからの女性幹部でもある。

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 ◎日本の切り絵――創作活動

 私の善隣会館時代に開始して、いまなお隆盛な文化活助に「切り紙」運動がある。

 これは協会員らがつくりあげた日本の新興美術運動の一つ、といえるだろう。

 中国の民間に伝わる「剪紙」をそれまでも協会は紹介してきたが、高野山や新潟、その他で、干支の「切り紙」をつくる風習が今もつづいている。漆器の絵を描くにも、染め物にも、型紙、つまり「切り紙」が使用されている。

 はげしくたたかうときにこそ、温もりのある文化的運動が欲しいという要望が協会支部、班段階の市として出てきたので、日本の「切り紙」の創作運動を、本部は機関紙上でのコンクールから手はじめた。すでに「切り紙」のサークルは東京都連合会にあって、武田祈さん、山本光雄さんらが中心であった。武田、山本さんの協力による本部の取組みであった。

 北海道では帯広で六六年(昭和41)末にに、藤川澄人さん中心にサークル活動をはじめていた。

 コンクールが開始されると、小樽でも活発化した。

 道連では猪股事務局長、札幌の説田猛夫さん、小樽の前田さんもこの推進に方をいれた。広島県連は先駆的であった。広島支部の三戸真治さん(現県連事務局員)が支部、県連の青年部の会議で熱っぽく「切り紙」活動を語っていた。県連理事長の天道正人、鉄村豪、佐藤輝栄さんらも積極的で、原水爆禁止世界大会で作品を発売するなど、日中友好協会の「切り紙」を全国と海外に広げた。

 本部で下絵を発行し、新聞コンクールを開始すると全国で大きな反響が湧きおこった。兵庫、大阪、群馬、和歌山、宮城さらに全国へと発展していった。 滝平二郎さんの作品が朝日新聞に連載され、それが「切り絵」運動の背景の力になった。

 「切り紙」が「きりえ」になり、武田、山本、坂口平人さんらも加わって協会きりえ委員会をつくり、会員のきりえ運動をすすめ、会員外の人をふくめた「日本きりえ協会」も発足した。

 六九年(昭和44)と七〇年に中国民話集『ニジガロ』『チワンの星』を出版した。

 これは大阪の鮒子田耕作さんらが牽引車になってすすめられた。監修、編集は中国古典と文芸研究家の釜尾修、新村徹さん、挿絵は版画家の儀間比呂志、加藤義明さん。全国の民話研究家の関心をあつめただけでなく、挿絵の「切り紙」が「切り紙」ブームを加速させた。

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 ◎不再戦の石碑

 協会が不再戦運動の一環としてすすめた不再戦碑建設運動も、各地で実った。北海道、京都、和歌山、高知、長崎、群馬その他にも建設された。

 一九六五年(昭和40)に協会全国大会で、強制連行の中国人犠牲者の出た土地に、慰霊と不再戦の誓いをこめた石碑建立を決議している。

 北海道では、小樽支部の大江鉱山のあった仁木町に建立した。私はここを訪れたことがある。

 群馬県では犠牲者の多くでた利根に七〇年(昭和45)に建立し、七二年(昭和47)には太田市・長岡寺に建立した。この慰霊碑の表面に柳田謙十郎先生が、

「日中不再戦、中国人烈士慰霊の碑」

と揮豪し、裏面にば長谷川浩士常任理事が揮豪した。

 長谷川さんは少年飛行兵学校に入校し、特攻隊参加が目前の日に、敗戦で死から解放された。協会の草創期からの活動家である。

 協会には元軍人で、二度と中国と戦争してはならないと参加している人が多い。

 熊本支部の船越隆二さんは、旧満州の士官学校をでた元将校で、熊本の日中友好の中心的な活動をおこなってきた。神奈川の渡辺楠之さんも元将校であった。東京の矢崎新二、永富博光さんらは、中国での自らの犯罪を告白して、侵略戦争告発の証言運動の先頭にたち、九〇年(平成2)代に人って青年会員らの手で製作した証言ビデオに登場した。


 長崎では、原爆で犠牲になった中国人名簿を、平和記念館に安置させる運動が、協会会長の三浦康さんらによっておこなわれてきた。三浦さんは、戦後、レッドパージのあと友好運動にとびこんだ人である。

 魯迅ゆかりの宮城県では、六一年(昭和36)には魯迅記念碑を建立し、干渉事件以降も日中友好協会員が守ってきた。

 魯迅の調査研究を、年来の課題として取り組んできたのも同協会県連であった。東北大学など学界も参加し、その研究の輪が広がっている。県連の草分けの村松勝三郎理事長と、後任の渡辺襄事務局長はともに、東北大学の出身である。

 岩手県連の横田綾二会長は、仙台工専で化学を専攻した。この工専はいまは東北大学となっている。横田さんは脱走事件のときに残った十一人の常任理事の一人である。脱走事件のあと、岩手には全農林の那須野草さんらが活動していた。

 秋田の高橋与市郎さんは国鉄労働者出身で、六七年(昭和42)四月文化大革命の初期に、協会から「人民中国」普及活動家代表団の一員として、長谷川敏三らと訪中したが、中国の工作に屈しなかった人である。

 青森では大塚英五郎、平泉喜八郎さんが健闘してきた。

 平泉さんは高校の教員で、雪の降るなかでも友好運動の旗をかかげて頑張ってきた。脱走事件のとき県連合会の事務局長で中国派に走ったのは、東北では福島の伊藤事務局長だけであった。

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 ◎本部襲撃事件の終幕

 協会事務所が山手線の巣鴨駅近くに移転したのは、一九七〇年(昭和42)九月七日であった。三年にわたる、わが国に前例のない外国指示による暴カ破壊事件は、これで幕をおろした。

 善隣学生会館側は、華僑学生、 「正統本部」など毛沢東派の言いなりになって彼らの暴カ、妨害をほしいままにさせてきた。六七年(昭和42)五月に不当にもわが協会にたいして「建物明渡し訴訟」をおこしてきて、二年にわたって法廷闘争でも争ってきた。

 会館側は道理にあわない主張をくりかえしてきたが、協会弁護団の奮闘もあって会館側が、華僑側学生と正統本部による日中友好協会事務所への襲撃をついに認めることになり「会館内でおきた暴カ事件について管理者として遺憾である」との表明をした。

 また協会の正常な業務の保証をしなかった非を認め、わが協会にはじめて陳謝した。その他協会の要求も通ったためついに、両者の和解が成立することになった。

 日本の日中友好史に、大きな汚点と抵抗史をきさんだ善隣学生会館もその後とり壊され、その跡地には「日中友好会館」が建設された。まったく変貌した姿で建っている。


 私は七〇年(昭和45)十月十二日の定期大会で、病気療養のため事務局長の任務から離れた。

 療養にはいることができるようになった。

 後任には、東京都連事務局長の鈴木定夫さんが選ばれた。

 中国の干渉はつづいたが、暴カから協会本部を守るたたかいだけは終止符をうった。一定の限界内とはいえ、協会活動の新しい開花期に人ったともいえる。

 松田英子さんらの指導する太極拳、武田祈、坂口平尾夫、吉幸ゆたか、持永伯子さんらを中心としした協会の「きりえ」運動、中国語講座の開設。戦争展、石子順さんの援助も得て中国映画上映などの運動が、協会の文化運動として広がった。

 丸山昇、伊藤敬一、富山栄吉、松本昭子、大村新一郎さんらすぐれた中国研究家の努力で研究活動が活発化し、若い研究家もふえ、丸山至さんら編集の研究誌『季刊中国』の発行が進んだ。自主的立場にたった中国研究誌としては、わが国では他に類をみないという評価をうけている。また旬刊『日中友好新聞』も自主的な立場の日中問題専門紙として定期発行をつづけてきた。

 協会はまた、中国人強制連行の発掘と政府の責任追及、中国残留婦人と孤児にたいする政府援助を要求した行動、従軍慰安婦にたいする国家としての謝罪と賠償をもとめた運動を展開している。

 一方、日中友好協会から脱走して組織された「正統本部」は、その後改名し、再び「日中友好協会」を名乗りだした。各方面から「名称詐欺」と批判されている。これこそ「ニセ日中」といわれても仕方あるまい。


 地方では、地域名を頭において、例えば「東京都日中友好協会」などと祢している。運動面では中国との特殊な関係がつづいているため、人権問題その他でも適確な批判はできないでいるが、財界、日本政府から支持されている。

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(橋爪利次著「体験的[日中友好]裏面史」第1章 東京でおこった文化大革命、日本機関紙出版センター、1996年)